まちかどけんちくか

まちかどけんちくか」とひらがなでグーグル検索してみると、おそらく国営放送局のまちかど情報室やまちかど建築展などがあがってくることでしょう。

まちかどの後のけんちくかを打ち込むとトップ表示してくれます、当然ですよね唯一ですから・・・・きっと孤独な存在なんでしょう?

まちかどけんちくかは「建築家」ではなく「すぎはら設計」や「杉原寛」の装飾ことばを指しているのではないんです。

「けんちくか」は賞をたくさん取って有名な「建築家」ではありません、カリスマ性もなく一流大学も出ていません、けれども建築が好きで一生懸命勉強しています。

いつ努力が実るか分からない、実るとも思っていない無欲さが肩に力が入っていなくてお付き合いが楽な存在でありたい。

発想の奇抜さや時代を写し取ったようなデザインでマスコミの注目を浴びることで存在感をアピールして自分の社会的価値を揺ぎ無いものにしたいというベクトルは向かっているのだが、それを最終目標にはしていない。

政治的人脈などもろもろの人脈が武器とも思えない。

ここまで書くとまるで世捨て人みたいですね(笑)

考え方のベースにあるのは「生活の容器」とか「人生の場」といったこと。
デザインからは非日常性を感じるように、逆に日常性や生活観から個々の人生を充実させてくれる「住まい」。
ひとりひとりの建築主と向き合ってその人の「住まい」の具現化してくれる「けんちくか」はどこの「まちかど」にも存在できるはず。

これらの思いを凝縮した言葉だったのです。

コンペ応募作品

名前を書くと差しさわりがあるかもしれませんので書きませんが、友人が関与したという愛知県内のある施設のコンペの話をちょっと。

金沢兼六園近くにある市民に人気のある美術館、といえばもうご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
そこを設計した建築家といえば・・・・。

ご存知の方はその様子やプラン、企画の面白さを思い浮かべてください。

ほとんど同じコンセプトではないかと思ってしまう応募作品の絵が友人宅にありました。
もちろんそんな感想を即座に言ってしまった私に・・・そうなんだよ、やっぱり一度当たると誰でも二匹目のドジョウを狙ってしまうんだろうね・・・

どこがどうだったかという詳細はあえて書きませんが、それ以上に関心したのは絵のシンプルさ。
強調して訴えたいポイントに絞り込んで、ほとんど絵のみの表現になっていました。
細かな説明文字はありません。
だけどよく分かります、思いが。

プレゼンにはご本人と構造担当と設備担当がかなり具体的な部分まで説明されたとか。

友人曰く、たったこれだけの絵だけれどかなり計算しつくしているようだった・・・・
そして続けて、地元の市民審査員が外から中が丸見えだけど恥ずかしいなと質問していた・・・・だとさ。

有名建築家さんのコンペプランの作り方に勉強させられたことも大いにプラスでしたが、自分の仕事に文化性を持たせることが出来ると幸せですね。

現実の仕事の中でそんな思いを持ち続けることはそんなに別世界のことでもないと感じています。

下手の横好き

ここのところの私のブログに対する姿勢はちょっと懐疑的、ブログは更新しなければその価値はないという考え方ですが、何故か毎日まるで他人のブログを覗くように自分のブログを見ている(読むんじゃなくて見ている)。

過去の全盛期よりマスコミもブログの話題を取り上げることも無くなってきたが、だからこそ本来の価値を発揮できるのもこれからという気がしている。

ところが、書き込みはコマーシャルの間に横文字コメントが満載(すみません私は国際派は大学受験以来離れています)、まるで「もうブログなんて辞めといたら?」と言わんばかり。

ところがところが、建築の設計という小さな枠の中に住みながら大きな注目を集めてしまっている現実にますます奮起(心の奥で)しています。

下手の横好きも好き(ちなみに数奇屋の数寄は好きでもあるそうです)には違いない。

先日偶然試験会場で25年来お会いした旧友には、たぶんネットで私の活動をわき見してくれていたのでしょう、「本当に杉原さんは建築が好きだったんですね」という言葉を掛けられました。
そのときは私が構造の慣れない試験会場に現れたからかな?・・と、キョトンとしていましたが、時間が経てばシミジミいい言葉を頂きました。
・・・ありがとう・・・

何か新しい発見は無いかと暗中模索の毎日です。

上を向いて歩こう

「上を向いて歩こう」という坂本九の世界的ヒットがありました。

いつも現場で上を向いて工事の進行具合を見張ってばかりですが、この歌の歌詞の奥深さにふと気が付いたのは夕べでした。

悲しみの出来事に直面すると多くの人は涙がでます、知らず知らずに出てきます。
不幸にもこの回数が多い人はそれを堪えるために上を見ている習慣が出来てしまうそうです。

たまにそんな人に出くわすことがあります、意味が分からないのだけれど何故か上を向いて視線を反らして会話をする人。

一見失礼な対応に捕らえてしまうことがありますが、最近では「この人はきっと何か悲しいにことにあっているの違いない」と考えるようになりました。

建築現場では上からモノが落ちてこないか注意するために上を向くこと、出来具合を確認するために上を向くこと、どれも心の問題とは関係のない行動です。

しかし「上を向いて歩こう」の詩では上を向けばいつも空があり、空は相変わらずの雄大さで慰めてくれる、同様に気を紛らわせてくれる「現場」があるのは幸せな証拠のようです。

そんな意味では同じ「救い」かもしれません。

構造偽装のお陰で心に触れるデザインを軽視するような流れになってしまっていますが、細やかな心で建物を眺めることも必要なのではないでしょうか。

揖斐の家

工事業者と設計業者を同列になりがち区別がつかない、馴れ合いの存在を前提に物事を進めてしまう、建設工事に投資すれば概ね住民は納得するだろう、持ちつ持たれつではないかと真実が見えない、昔からそういうもんだという安直な意見。

そんなぬるま湯とゆでがえる的故郷、揖斐。

生活を支えるという崇高な目的であるにしろ、自分の思う設計を生業とすることは難しい。

しかし生まれた土地の人々に支えられている自分がいる。

矛盾する言葉の羅列に終わりそうだが、そんな現実を考えあぐねている毎日、ある日の朝事務所へ向かう道すがら振り返った池田山と揖斐の空は元気をくれるに十分なすがすがしさであることに気が付いた。

そんな余裕を持って生きている自分は幸せな存在だとつくずく感じる。

周りは自然に挑戦的なコンクリートの立方体に囲まれているわけではなく、逆らうことなく朽ちかけてゆく木造の壁、雨を受け流してゆく勾配屋根。

すべてが肩を張らずに、頑張りすぎずに生きろと教えてくれているようだ。

やはり無粋なコンクリートは揖斐には似合わぬ、木造がいい、揖斐の家。


1は100より小さいか

面白い話を拾いました。

1は100には負けない自身があると言いました。
それに対して100は1に笑って言いました。
おまえは1のくせして100の俺に勝てるとはずがない、どう考えても小さいからやめておけ。
ところが1は100には負けないものを持っている、勝ってみせる、と言いました。

そこで100は自分より大きな1000に相談しました。
すると1000は1に言いました、おまえは何を言っている、1が100に勝つはずがないではないか。
なんなら1000の俺が相手してやろうか?おまえは負けるに違いない。
ところが1はそれでも勝ってみせる、いや負けるはずがない・・と自身満々だった。

この分かったようでよく分からない話は何のことだか分かりますか?
この話を聞いた人はそれぞれが自分流の解釈をしていらっしゃることでしょう。

客観的な数字の大小、大きさという観点でしか聞こえてこなかったあなたは自分の視野の狭さを恥じなければなりません。

ボリュームの大きな設計の仕事になると目の色を変えて、闇雲に飛びついてゆく設計者がマスマス多くなってきたように思います。
しかしそれもやはり個性かもしれませんが、設計という仕事の性格と使命はボリュームを競うことからは程遠い。

あなたはどうお考えですか?

1は100に負けてもかまわない、といういうより、相撲と野球で何を競うのでしょうか?


エコキュートはテレビより大切


今日は本来のブログ風の内容になりそうです。

昨日は大垣の矢橋林業さんのお誘いに乗って東芝の空調機器フェアーに出席してきました。

収穫は2つです。

ひとつはエコキュートのヒートポンプにエアコンのヒートポンプを使用するというアイデア。

もうひとつは最近の大規模空調にはガスヒートポンプではなく電気を使っていることが多くなったという事実です。

どちらも同じ立場の設計者の方が読まれれば、何を今更言っているの?と言われるかもしれませんが、日常の仕事の守備範囲から飛び出て場所を変えて目にした内容は頭に残り重要な知識になります。

エコキュートについては今注目の省エネ機器であることは家作りをお考えの方はご存知ではないでしょうか?

メーカーの回し者でも何でもありません、お風呂の600リットルの給湯を毎日担うライフラインのような機器であることを意外や建築主さんは無視していらっしゃるというか気がつかれていないようです。

どんな機構でお湯を沸かしてくれるかはメーカーのホームページに譲るとしても、エコキュートに関してエネルギー効率や機器の代金、メンテナンス性、将来性などを一度でも研究されることが良い家作りの条件のひとつであることは間違いないようです。

新築後にどんなテレビを買うかを夢見るより、エコキュートが生活費をどの程度助けてくれるか、暖かな入浴生活が送れることを考えたほうが良さそうです。

市場のトレンドと入札談合


株価の値動きを表すトレンドという言葉があります。

上下する大きな流れの中での方向を掴むことがなんといっても重要な作業なのはいうまでもありません、高値で売るのが利益につながるのですから。

投資の世界での常識は、トレンドは上がりっぱなし下がりっぱなしということはなく、上昇して過熱気味になれば調整の動きが必ずあると言われています。

それは市場が人間の心理に基づいて動いているからだと説明されています。

話題は小生の住む建築の世界に戻ります。

相変わらず談合が日常茶飯で行われている恥ずかしい報道が後を絶ちません。

談合行為を必要悪であると解かれる方は、その世界の技術レベルを維持するためだというのが大きな理由の一つです。

それは裏返せば独占的集団を作るのは当然の事実なのです。

ここで先ほどのトレンドという言葉を思い出してください。

市場関係では値動きというものを建築の世界よりも寛大な心で捉えてられているようにも思えます。

一気に入札の値札の動きと株価の動きを同列で論じてしまうのは乱暴であるのではという批判も認めないわけにはいけないのは解りますが、これを一笑に伏せてしまいたくなる方が居るのもこれまた疑問が残ると考えるのですがいかがでしょうか?

人為的に入札行為をコントロールするようなことを市場に持ち込んだりしたら、これは過去に存在した社会主義国家がしてきたことに他なりません。

そうです、談合を憚らない集団にはトレンドという人間心理の調整弁の存在を認める能力のない社会主義者なのかもしれません。

決して飛躍しすぎていないようにも思えますがいかがでしょうか?

構造計算の偽装から始まって、建築士の資格を専門性で区分する法改正の動きとそれに連動する能力評価の仕組みを作ろうという動きは、この「社会主義者」が入り混じって論じていることに恐ろしさを感じてしまいます。

夜中にこんな内容を書いていると面白い方向に話が流れてしまいました。

投資の勉強は面白いことも教えてくれます。


年収100万円で楽しく幸せに生活する本

構造設計一級建築士になりたーい



構造設計一級建築士という資格を生んだ直接の発端は耐震の偽装事件という犯罪ですが、皮肉なことに結果として地震という天災の不安を少しでも取り除いてゆくマニュアルを作ってゆくことになったようです。

正直なところ一級建築士という枠の中では、姉歯さんのように立場の弱いのは構造専門家だということは多くが認める事実。

彼のしたことは犯罪ではありますが、商売の道具にされてしまったように感じているのです。

新しい資格の創設によって構造設計の専門家にスポットライトがあたり始めたことは、不謹慎ではありますが、彼の負の功績とでも言いましょうか。

前にも書いたように、なんで罪のない建築士までイジメルノ?と言いたいところですが、地震に強い建物を増やしていくには社会の冷たい風に後押ししてもらわなければならないという、人間の悲しい性(サガ)。

社会的に重石を課せられた構造設計一級建築士の構造計算書でなければ、岐阜県の揖斐あたりでも多い小規模な鉄骨2階建ての離れ(揖斐では小屋と呼ばれています)でさえ作れないということになりそうです。

木造の住まいの構造計算である軸組みの算定においても、従来は書類添付の必要がなかったものが必要になります。

私自身は木造が好きですから、それだけ皆さんが木造を大事に扱ってくれる分、嬉しいのです。

現実の仕事で構造設計一級建築士の資格が必要になり、いよいよ実質を問われる時代が来ることに、前向きに歓迎したいものです。

構造一級建築士



大学を卒業して2年の設計実務経験を経て一級建築士の受験資格ができます。

年に一回の学科と製図の資格試験を合格して、晴れて一級建築士を名乗ることが出来ます。

今回の耐震偽装事件による波紋は法の改正という形で建築士全員に対して責任を与えてきました。

昨日、改正に関する講習を受けてきましたが、何か釈然としません。

その改正内容は多義にわたりかなり中身の厚い、と言うより熱いものです。

とりわけ構造一級建築士という資格の創設については、現一級建築士の腕を一旦もぎ取って預かっておくから力ずくで取り戻してみろ・・・と言われているようです。

今まで積み重ねてきたことを整理して、もう一度勉強しなおし受験すれば済むことではあるのですが、これでいいのかという思いが残っています。

施行までの時間はまだあるようですので、細かな整理をしてほしいものです。

警告!これでいいのか地球温暖化

京都議定書では2010年までに1990年レベルの6パーセント削減が要求されました。

民生用、つまり生活用や業務用の分野では2パーセントの削減目標が付けられました。

ところが住宅に関する生活エネルギーは2002年には1990年レベルの28.8パーセントも増えているというデータがあるそうです。

そこで2005年には地球温暖化対策推進大綱の目標値が改訂されて、民生用エネルギーは2010年までに6パーセントの増加まで抑制することが目標とされました。

私も興味を持って勉強している「自立環境型設計」では、2000年の標準的な住宅に比べてエネルギー消費に比べて半減させるという分かりやすい目標を示してくれました。
風を感じるオール電化の設計ではそのマニュアルを勉強して作っていました)

それまでハウスメーカーのコマーシャルに登場してきた一般には分かりにくい熱損失係数の数値競争に終わらせることのない一皮剥けた設計マニュアルが出来てきたということです。

それにしても残念なのは、日々感じる気候の異常を感じているにもかかわらず、先にご紹介した生活エネルギーの二酸化炭素排出量はちっとも好転に向かっていないという現実です。

今年のエルニーニョによる暖かい冬は、大地震の前兆ではないかとさえ思えてしまうのに、先の自立環境型設計のマニュアルのような素晴らしい技術力を生かしていける見込みがあるのか不安です。

憲法改正による軍備拡張を考えるよりも、このマニュアルに法的強制力が付けられないものかと考え込んでしまったのです。

建築写真の撮り方教えます



面白い建築写真の撮り方をお教えします。

建物が完成したらやってみる写真の撮り方があります。

とにかくたくさん撮ること、完成する頃に一日に100カット以上を3日くらいは現場に通います。

これは大学時代に写真サークルに在籍した頃に覚えたことですが、100カットを撮ってもそのうちの面白いと感じる写真は数カットです。

ただし学生の頃の写真のテーマは社会問題を浮き彫りにするというジャーナリストのようなものでしたので、そんな視点で選定していました。

建築の設計を職業にするようになってからは、ちょっと変わりました。

それは、建物の中を歩く順序、人間の動線を意識しながらたくさん撮ってみるのです。

アングルも変えてみてさらにたくさん撮ります。

今はデジカメの時代ですから、パソコンに取り込んでワンカットずつ学生の頃のように丁寧に眺めてみます。

これは本当に教えたくないのですが、面白い発見がいくつも出てきます。

写真ワンカットずつ見る動線の検討はユニバーサルデザインに通ずるものを発見します。

インテリアデザインを振り返ることもこの方法が生きます。

デジカメを通して額縁に入れたインテリアは図面を描いていたときの建物とは違う魅力を発見するときもあります。

工事が終わってから眺めなおす工事の様子や竣工の状態は現在進行中の設計に対して、こうしなさいと意見を言っているようでもあります。

書き出すともっとたくさんのメリットがありますが、もしあなたが建築主さんでしたらデジカメでたくさん撮っておいて作ったという事実と歴史を残しておいてやってください。

幸いにして画像データはそんなにパソコンのハードを占拠することはないですから。

資産運用と住まいづくり

住まいを計画する上でどうしても考慮に入れておかなければならないのは、建築費の試算だけではない資産。

洒落を書きたかったわけではなく出てゆく建築費がどのくらいになりそうかは当然大きな問題ですが、出てゆくお金は大小の差はあるもののどうしても必要なものとして、ある意味「あきらめて」しまいましょう。

それよりも大声でお教えしたいのは、ライブドアショックでも報じられているように世の中の経済の仕組みが変わってきているという事実です。
変わってきているというより変わってしまったといったほうが正確でしょう。

間違いなくインフレに近い状態、専門家ではないのであくまで「近い状態」ですが、住まいの計画を機に個人の資産運用のソフトなんかをご自分のパソコンにインストールしてみてはいかがでしょうか。

是非、お勧めします。



冷蔵庫を買い換えよう・その3



前回では、1994年以前の冷蔵庫を買い換えると600kw時の節約になり、月に6000円電気代が下がったご家庭が実在したこと、さらに最近の製品ならば一年に6000円の電気代で動いてしまっているということなどを書いてみました。

今回は、高効率の家電を導入することにより現状より約40パーセントの家電エネルギー削減率を実現する具体的内容を建築省エネルギー機構が提案しています、それをご紹介しておきます。

現状:2000年製冷蔵庫(400リットル)、ブラウン管テレビ、通常の電気ポット、通常の洗濯機、だとすると、40パーセント消費電力削減の組合せは2003年製冷蔵庫(400リットル)、液晶テレビ、瞬間湯沸かし時間制御付き温水暖房便座、魔法瓶タイプの電気ポット、低待機電力タイプの製品、となります。

もし、これをお読みになった方で「これはうちのパターンだ」と気が付かれたら、是非実行してみてください。

冷蔵庫を買い換えよう・その2



決してヤマダデンキから頼まれたわけでもないんです、考え直しましょう、この贅沢な家電生活を!

家庭における消費エネルギーの割合は、給湯(ガス)28パーセント、エアコン18パーセント、家電16パーセント、照明8パーセント、冷蔵庫8パーセント、換気扇8パーセント、水7パーセント、調理3パーセント、温水暖房便座3パーセント、給湯(電力)1パーセントの順です。

まず、湯を沸かすことと冷暖房の次が家電です、そして冷蔵庫、換気扇は別枠で注目を集めています。
湯を沸かすことや冷暖房は、ヒートポンプという空気中の熱量で電気エネルギーを補ってしまうという(約3倍)魔法の箱の出現で、テレビなどでよく耳にするエコキュートの登場で状況が大きく変わりつつあります。
また、小池百合子さんのクールビズやウオームビズも、その流れの中にあります。

家電関係は、先に挙げた冷蔵庫が電力消費の割合がで34パーセントで横綱級ですが、大関が29型テレビ30パーセント、小結が温水暖房便座11パーセント、以下温水暖房便座、MDコンポ6パーセントですよ。

冷蔵庫は、1994年以前の製品ならば、買い換えると一時間に約600KW時の節約ができます。
これが前回ご紹介した一ヶ月に6000円電気代が減ったという話しの根拠です。
ちなみに現在売り出されているテレビならば年間で6000円の電気代で済みますよ。

ブラウン管テレビの2000年以前のものは650KW時で現行機種の液晶テレビにすれば250KW時の節約です。

MDコンポなどの弱電機器がなぜ?と思われるでしょうが、彼らは待機電力を消費します。1990年代の製品の中には年間800KW時以上の待機電力を使う製品もあるようです。

地球温暖化なんかより、家庭の電気代を減らしたいと思いませんか? (続編にご期待を)

冷蔵庫を買い換えよう



先日、揖斐の田舎から名古屋の栄、オアシス21の近所まで出て行って、建築環境省エネルギー機構(IBEC)の『自立循環型住宅設計講習会』を聞いてきました。
以前も紹介しましたが、今日はその中から難しい話しはのけて、極めて分かりやすい話を一つ紹介しておきます。

1980年代の冷蔵庫のお話しです。
ちょっとはテレビなどで誰もが小耳の挟んだことがあるとは思いますが、意外と掛かる冷蔵庫の電気代です。
現行で販売されている冷蔵庫は1980年代のに比べると、電気代は10分の1になっているそうです。

これは、独立行政法人建築研究所の研究員の方が省エネ調査をされた結果の大まじめな話しです。

月に6000円も掛かっていた家庭が存在していたそうです。
お節介にその研究員の方がその調査協力をしていただいたお宅の奥様にお知らせしたら冷蔵庫を買い換えられたそうです。
そしたら月の電気代が、まさに月6000円も減少し、2年もすれば元が引けると言われたそうです。

研究員さんはその奥様にすごく感謝されて、めでたしめでたし!

日本昔話のような分かりやすい善意溢れる良いお話しでしょ。

ところがこれには続きがあります。

その研究員さんがご自分のご実家に帰られて冷蔵庫を調べてみたら、なんと1980年代製だったそうです。
さっそくお母様に買い換えるようにアドバイスしたら、「なにを贅沢言っているの」とお説教をいただいて聞き届けてもらえなかったそうです。

せっかくの研究結果は小生たち専門家には興味ある事実でも母にはかなわないかったのです。

おまけにお教えします。
DVDプレーヤーとトイレのウオシュレットが冷蔵庫に続く電気大食い家電だそうです。
必ず消費電力を確認して買いましょう、生活の知恵です。

お湯と生活



先日、建築環境・省エネルギー機構 IBEC の講習に参加してきました。
基本テーマはオール電化住宅の設計指針についてです、これは今までオール電化住宅の設備に関する設計方法を整理し指針としたものができたということです。

これだけオール電化が世の中で騒がれているのに設計の指針が無かったこと自体が不思議な感じをもしますが、小生も有ってもしかるべきと感じていた矢先の講習のご案内に飛びついてしまいました。

本論はここからなのですが、お湯の存在を振り返ったことはお有りでしょうか?
毎日、お湯を空気のように有っても当然のごとく贅沢に使ってしまってはいませんか?
生まれた瞬間から産湯のお世話になるのですから、お湯のない生活など考えられないのですが、逆にだからこそ使い方を振り返ってみると美味しいことがあります。
そんな一つを紹介してみます。

設計の立場では建物の省エネとなる構造を断熱や気密、換気、通風、日射遮蔽などから追求し実現を図ってきていますが、いざ生活という観点から眺めてみると、いくら性能のいいハードを作ってみても、上手に住んでもらわなかったらなにもなりません。

つまり、使うお湯の量や沸かすタイミングを毎日の家族生活になじませることで、平たく言うとお金を生むということです。

家族でお風呂やシャワー、炊事の時間を話合いで決めて、その家族なりの給湯パターンを給湯器のマイコンに覚え込ませるという作業をやってみてください。
設備の種類によっては覚えないものもありますが、最近の給湯設備にはそんなお利口なのもありますし、それにもまして家族内の約束事を決めることは教育上も大切なことです。

そしてさらにポイントは、お湯を沸かすエネルギー消費は使う手軽さとは裏はらにかなり大きいのです。お湯を沸かすのに月にエネルギー代1万円から2万円は使っていませんか?
昔は半日掛けてお風呂の用意をしていたのだから、それを思い出せば当然です。
そして「たしかにそうだったよな」と同時に現代の科学技術の進歩をもっと見直してみてください。
1kwの電気代で3kwのエネルギーを出してしまう給湯器も存在してしまう世の中なんです、ご存じでしたか。

1000円で3000円分のお湯を沸かすと言った方が分かりやすいでしょうか?

建物自体の性能、生活のパターンの家族内での条約締結、先進の給湯設備が揃えて実現したのがこの住宅でした。

このご家庭では、月の電気代が大きく減少しました。

すみません、もうひとつ、デザインもいいでしょ。

かつお君はバケツ持って立たされている

さざえさんの弟、カツオ君がバケツ持たされて廊下に立っている絵を見たことがありますか?
ありそうでないことの一つに加えたいくらいです。

小生の世代の方ならば、歩けばギシギシ音をたてるフローリングの記憶とともにそんな経験に似たことがらは一つや二つはきっと有るはずです。
カツオ君が廊下に立たされているストーリーを放映することすら不信感をかってしまいそうな世の中の流れに悲しい思いをさせられます。

小生の子供の頃の教育が必ずしも100点満点では無いにしろ、そんな思い出の情景のバックには、ひび割れたムク板張りのフローリングや油くさい腰板張り、雨漏りの浸みまるけで、そんなことを気にもとめないでコークスのストーブの廻りに集まれと、お弁当箱を暖めてくれることを授業より優先してくれた先生の優しさ。
そんな環境で、授業態度が悪いから出て行けと怒鳴られている友達を横目で追う目のオドオドした目の底には一点の曇りもない。

ぶつかっても大怪我にもならない壁、踏んづけて穴が空いても板を打ち足せば、即修復完了の板張り廊下。

学校の防火規定があの頃のままで現代まで変化がなければ、コンクリートに囲まれて怪我をすることもなく、アスベストで今更騒ぐ必要もなく、そして、そして、木の香りと柔らかさに包まれて育っていれば、きっとカツオ君はバケツを持って廊下に立っていただろうに。

なんて日本人は知恵がない国民になってしまったのだろう。

せめて住まいは木に囲まれた子供にとっての精神的オアシスにして上げたいものですよね。

洗面所とは個室でしょうか?



最近は住宅各室の役割?というより各スペース、各空間ごとの役割を考えてみています。
みなさんは洗面所、いわゆる浴室の前室をどんなスペースだと思われますか?

人間の生活習慣としてとらえると、お風呂に入る前のプライベートな準備スペースだから、隔離出来ることが最優先でそれ以上の工夫というか機能をプラスすることを拒否しがちではないでしょうか?
だから、ほとんどが廊下から90度にドアを隔ててターンした位置で視界を遮る場所にほとんどが設置されています。

だけど洗面や脱衣、洗濯という行為のくくりで眺め直してみると、家族全員が使い易い位置にほしいとは思いませんか。
それを簡単明瞭にしてしまったのが、こちらのSさん宅です。

写真で見て頂くと、直線的に幅の広い廊下のように見えているのは、手前から台所、室内物干し、洗面脱衣、浴室の順にほとんど同じ幅で連なっています。
人の動きを考えてみると簡単明瞭な解でしょう?!

解釈を拡大すると通り土間にフローリングを張ったような感覚で楽しいですね。

和室の新利用術

和室って何のためにあるんでしょうか?考えてみてください。
小生の住む町、揖斐川町に限らず東海地方一円では、田の字プランといって8帖程度の和室を住宅の西側に田の字のように4室をしつらえる慣習が、今も根強く残っています。

この田舎にもあちこちに葬儀ホールや立派な葬祭もできる火葬場が出来てきて、その流れも変わりつつあるようではありますが。
ただ、自宅で冠婚葬祭をしなくてよくなったとそれだけを理由にして、「もう必要ないだろう」とプランから外してしまうのは一抹の寂しさが残ります。

我が家では和室は仏間となっており、普段でも8畳の中央に座卓が一つあるだけの状態です。まさに数寄屋の座の世界を温存してあり、気が滅入っているときなどは入って中央に寝ころぶと落ち着くものです。

高校生の娘は、自室ではなく風通しのよい広々した和室の中央に座って(我が家の主人のように)勉強しているのを見ても、やはり気持ちの落ちつく空間であることには間違いがないようです。

周囲に生活ツールが固定されてしまう洋室のしつらえに比べると、今風に言えばフレキシブルな畳敷き和室空間には、日本人の知恵が宿っているようです。

以前、お話しした「ハレとケ」のつかの間のハレが味わえる空間でもあるようです。

今日は綺麗にまとめれてちょっと満足です。杯、ひろし

デザインが良いからとそのまま自分の敷地に持ってきても無理

テレビ組や雑誌で見て気に入ったデザインを採用したいと、そのまま強引に(ご本人は強引と考えてみえない)ご自分の敷地に当てはめてみようとされる方は、多くいらっしゃると思います。
何も考える手だてのない状態からのスタートですから当然の行為ですが、設計者という立場から見ると、そのまま計画の進行されて終わってしまえば、かなりもったいなくて悲劇的状態でしょう。

いわゆる間取りという使い勝手ばかりが優先されており、自然の条件、特に季節ごとの風向や日差しの具合、などの立地条件が生かされていなかったりすると、金銭的にも初期の建設費ばかりの節約だけに終わっておりもったいない話です。

わかりやすい例では、小生の家は建ってから20年経過しますが、夏にエアコンを使用したのは数年も無いのではないでしょうか。(エアコンは一応設置されていますよ)
仮に15年間使用していないとすれば、その間の電気代は「得しちゃった」ですよね。
これはごく単純に風の通りが良いプランになっているからに他なりません。

ただし、これには地方性がありますが、小生はここで公開されているアメダスのデータを使用させて頂いたりして、立体的に風の季節ごとの入り口出口、取り入れ方向などや日照の時間や方向を検討項目に入れています。

こんな中から生まれたのがこの住まいです。


ハレとケ

ハレとケという言葉をお聞きになったことはありますか。
単純明快に言ってしまうと、日常と非日常でしょうか。
毎日繰り返されるお勤めがケ、たまの旅行がハレ、でしょうか。
人間はケの繰り返しのなかにハレの日があると気分も晴れて活力を取り戻す動物ですね。
もっとも、毎日がハレの人種も最近はいるようですが、このあたりは余談になりそうなので遠慮します。

プライベートな時間を過ごす空間も人間には不可欠です。
家族という集団自体がプライベートな単位と考えて、やたらオープンな空間を作ってしまう設計者もいますが、何か精神衛生上よろしくないように思います。

住まいは気まぐれに、しかも気分転換で作ってしまうものでもないと思いますし、やっぱり室内の通風も環境衛生上不可欠という側面もありますが、
「住まい手側で自由に空間を区切ってしまいましょう」なんて格好のいいことをいっても、それは設計者のマスターベーションの象徴的言葉で、住まい手としてはある程度はプライベートな区切を用意しておいて欲しいようです。

ハレとケがたとえば一ヶ月単位でやってくる家族があるとすれば、プライベートな空間は一日単位でやってくるハレとケを区切ってやるスペースでしょう。
それは家族のひとりひとりのプライベートな時間も持てるように・・・・

光の入り方・・・窓の扱い

「部屋は明るくしてください」という要求が多くあります。
明るいという感覚は、温度に対する感覚と共通点があり室内に明るい部分とくらい部分、寒い部分と寒くない部分が混在していると特に体感がはっきりしてくるようです。

当然といえば当然です、特に寒さ対策は室内の温度差を無くすことによりかなり快適な状態を作れることは誰でも知っている定石で、どんなプランの住宅でも壁や屋根、開口部の性能をコントロールすれば一定のレベルは確保できますが、明るさは体感的にも個人差が計りきれずに苦労することがあります。

明るさにメリハリをつける意味で、朝に明るい日差しが差し込む窓、陽の高くなった昼間には、暑さを持ち込まない窓、夜は必要に応じて明るい部分とそうでない部分の使い分けを雰囲気作りと掛け合わせて考えるなどの工夫でかなり解決するようです。

これらは人間の感覚が許容できる一定の幅をもって環境に順応するという能力のお陰です。

とりわけ精神衛生的にも朝に明るい日差しを持ち込むことを考えに入れる暮らし向きは、お奨めします。

サヤに納める

「元のサヤに納まる」なんて言います。
言葉の意味合いは意味深なものを感じてしまいますが、大事なものをサヤに入れておくという、こんなに簡単なことを建築の設備の世界、特に給排水の工事では常識とは捉えていなかったのです。
サヤ管工法と呼んでいます。
中の配管の取り替えがうまくいくように差し替える通路を最初から作ってしまうのです。
現場では、人間ドックのお世話になっているメンバーも多く、胃カメラといって冗談の種にしています。

作ったものは、一定の時期がきたら壊してしまうというスクラップアンドビルトという言葉も懐かしさに変わってきています。
資源のリサイクルが合い言葉になってしまった社会になって、初めて最も劣化の目立つ設備関係なのに「じゃーそうしようか」なんて言い出したサヤ管工法。

あまりに気がつくのが遅いよね。このあたりはドイツ人に負けているといつも感じてい
ます。

残念!!!!!サヤ管斬り

きみまろと住まい

綾小路きみまろはご存じですか?
住まいと関係なさそうですが、大いに関係あります。
落としをひとつ「老婆の休日」、この落としにたどり着くくだりは、それぞれ思い描いてください。小生は知っていますが。
彼の漫談はかなりきわどくて差別の批判も受けたようです。
今回はそのあたりは脇に置かせて頂いて、ネタの作り込まれた面白さを一度味わってくださるよう、お笑いの隠れファンとしてはお勧めします。

大声で笑うことの健康への効果は「笑う門には福来たる」じゃないですが事実であることを医学的にも研究されているようで、実際にその効果も臨床されているようです。
これを住まいの設計にも取り入れたいものだと、某テレビ番組を見ていて思いました。

具体的方法論はいくつも考えられますが、建物の物理的仕掛けで実現しようとすると、問題の取り違えみたいで、想像すると笑えてきます。?

真面目に考えると、まずは家族が一卵性家族的雰囲気を作ってゆけるのが第一かなということになってしまい家の構造的なところからは離れてしまいそうですが、家族の構成員のお互いが見つめ合う環境、離れて自分自身を見つめる環境、それぞれの場所を提供できるようにして、家族が集まれる場所で集合できる時間を作り、きみまろの漫談で大声で笑い気持ちを解放できること、そんなメリハリが生活に生かされてゆけることを想像しつつのプラン創りかな・・・・と思いめぐらせていました。

医食・住・同源




医食同源という言葉がありますが、これに住を強引に加えてしまいました。
住まいの中で、特に最近身近に感じたのはバスルームの存在です。
12時近くまで毎晩パソコンに向かっていることの多い小生は、家族の中で最後に入るか、早い時間に短時間に済ませることの多いのですが、それでも必ず浴槽に沈んで実行することが、首の延髄あたりまで湯にゆっくり浸けること、沈んでいる時間がもったいないときは、シャワーで首の後ろ延髄あたりに湯を当てること、浴槽の中で簡単な腹筋運動をすることです。

特に前者はおすすめします。頭がスッキリして、アルコールが入っているときなどは抜けてゆくのが良くわかります。

ユニットバスメーカーが浴槽の中に小段を付けてある物を多く販売するようになったのも、足湯のようにして、体(心臓まで)全体を沈める前に30秒おいてください、という体をびっくりさせないためのようです。
なにも子供と一緒に入るためだけでもないようです。

バスタイムを大切にすることは年齢を問わずに「食」同様に「医」の役割を担っています。健康のためのスポーツをする時間のない人、体力的に出来ない人には、そんな思いも住まいに託しましょう。

情報の箱



雑誌などで現代人は繋がっていないと不安を感じてしまう・・・・なんて文言をよく眼にしませんか?
携帯電話の普及がかなり進んできたことで、確かに建築主さんや現場との連絡もリアルタイムで行えるようにはなってきましたが、上手に使い分ける知恵を持たないといけなません。
心情と同時に用件を乗せたいときは電話、説明内容を整理したいときはメールと添付写真データ、大切な確認事項はといえば、やっぱりお会いして・・・・

「とりあえず」ということばを使いたがる人を見かけることがあります。
あまり頻繁にでてくると耳について不愉快な思いもします、小生などは理屈っぽいので「とりぜずはいいけれど、いつが本論なの、決定はいつ?」と言いたくなってしまいますし、現に「ところでその結論は?」訊ね直しています。

あまりに短時間に何度も通信できることが生み出した言葉が「とりあえず」かな?
繋がっていないと不安だからかな?

住まいの中には情報ボックスを作って、ネット関係や有料放送などのケーブル管理が容易に出来るようにしていますが、もしこれを作らなかったら狂乱状態で怒られそうな気がします。

現代は人と人が携帯で繋がっているようで、実は繋がっていないから、多くの人に囲まれて暮らしているようでも、不安に囲まれてしまうようにも思います。

ある建築家が「住まいに繋がる電線を全て無くしたら、人は不安から解放されるのだろう」と言ってみえました。たしか石山修武先生だったかな?

小生が作る情報ボックスが不安を解放できるような機能が付加できると面白いですね。

花とおじさん・ユニットバスと鏡



花とおじさんはともかく、ユニットバスと鏡はミスマッチとも思えませんか?
浴室は必ずユニットバスとするのは設計屋としては安直すぎる判断かもしれませんが、毎日お世話になる場所ですので、各メーカーさんの知見の集積を買って頂くのが賢明なようです。
何故か、どのメーカーも異口同音に大きな鏡がセットされています、オプションになっているメーカーはまずありません。

綺麗好きな日本人にはそれを不思議に思うことが少ないのでしょうか?
もちろんユニットバスでの過ごし方には個人差があるのでしょうが、ユニットバスにおける鏡論とでも言いましょうか、あのスペースを空けたら面白い展開が望めるのではないでしょうか。
メーカーの企画担当の方、これを読んでみえませんか?

あるご主人は、「ユニットバスの中で自分を写してどうするの?髭は電気カミソリの方が早くて綺麗に剃れるし、鏡は洗面所にあるんだし」
ある夫人は「あなたが出た後の鏡の掃除はおことわりよ、自分で出る前にやっといて、私も忙しいんだから」

話を広げて住まいにおける鏡論なんてのも集約整理すると面白いんでしょうね。

生活ってのは人によってとらえ方が違い、その意見を聞いていると面白いアイデアが引き出されてきます。

暑い、寒い、蒸し暑い、それしか知らないの?その2

人間という生き物は「生き方」を考える動物です。それに乗っかって「住まい方」を同時に考える必要があるように思います。

別に哲学的な内容を書くつもりは無いのですが、どんなにすばらしい技術を駆使して住まいを造っても、そこに住む人間によっては室内環境は変わってしまうということです。

「設計屋さんから冬は暖かい家だと聞いていたが、どうも使いにくい部分が多い」「収納を多く造ってもらったのだが押し入ればかりでどこに何を入れていいかわからない」「デザインは開放的ですばらしいのだけれど、夏の時期は居間が暑くて寛げない」などの話題はどこにも転がっていそうですね。

これらは設計者が設計段階でのヒヤリングがまずく、その人、その家族の住まい方レベルまで掘り下げていなかったせいでしょう。

「専門家の方なんだからお任せします」という言葉は耳ざわりが良いのですが、「住まい方」の生き方レベルまで踏み込んだ話をお聞きしたりすると、専門家と言われても理解できない、その人、その家族なりの感覚が潜んでいるもので、逆に「専門家だからお聞きしたいのです」ということだと思います。

暑いとか寒いなどの感覚も室内温度というだけでなく、湿度を加味した相対的な体感温度という人に直接感じる皮膚の位置での温度がどうかを考えて設計したり、建築主さんがそのことを設計の優先順位としてどのように考えていらっしゃるか。
また、住まい方として習慣として積極的に住環境を季節に応じて使いこなしていかれるか、などの「生き方」の一部分までも振れてゆけると良い設計になってゆくのでしょう。

暑い、寒い、蒸し暑い、それしか知らないの?

湿度という言葉は小学校の授業でも出てきていますので、多くのかたがその悪者ぶりだけはご存じなんでしょうね。
暑さ、寒さのように言葉の意味がはっきりしないせいでしょうか、明るいイメージで受け止めてもらっておらず、住まいにおけるその正体もまるでベールに包まれているようです。

ところが、湿度は裏の世界を握る政治家のように、暑さ寒さを左右すると同時に人間の健康や住まいの健康まで握ってしまってます。

その神髄は、「空気中に水分がどれだけ含まれているか」ということが室内環境や人体、建物にどんな影響を及ぼしてゆくかを整理すれば理解できることばかりです。

温度と湿度を相対的に把握すると、暑さ寒さや結露の対策が浮かび上がってきます。

最近聞くことが多い調湿建材というのも、湿度のコントロールを加湿器のような機械に頼ることなく、壁や天井にその機能を付加して、省エネルギー、結露の抑制、カビやダニの抑制、過乾燥の抑制をしてしまおうということです。
「そんなものは昔からあるものを使っておけば心配ないんじゃ、売らんがための建材屋の策略じゃ」という声が聞こえてきそうですが、よ~~~く考えてみよう、じゃないですか、この時代背景においては笑っていられない現実があるんです。

湿度というものを昔の学校時代の教科書を出してきて勉強してみてください。これこそ昔も今も同じです。

余韻を残して今日はここまで。

ものがないと生活できない?



小生と同じ名前の「ひろし」、彼の自虐ネタのなかに「身の回りからものを無くしたら生活が出来なくなりました」というのをご存じですか?

設計屋の場合は、仕事場の自分の身の回りに常に資料で埋まってないと図面製作が進まないし、建築主さんとの打合せも理解が進まないので仕方がないのですが、とはいうものの身の回りがゴチャゴチャしていると落ち着かないというか、日曜日などは事務所の応接室を片付けて机の上をパソコン1、2台のみにして自分の仕事に集中したりしています。それが妙にリラックスした気分になりきれてます。

ものの整理を定期的にするという行為は、座禅を組んで自分を振り返るというか頭の中を整理する効果があるように思います。

小生も学生時代は4.5帖のなかで充分生活できたし、それなりに楽しかったのですから、部屋や家が広いからといってそれが生活の充実に繋がるとは到底思えません。

いわゆる「収納」という現代人に与えられた宿命のような作業を考えるに当たり、そんな視点から眺めてみると、既存の住まいにあるものの移転のみに気を取られて、闇雲に収納スペースを増やすことは考えずともいいように思えます。

ひろしも「彼女に物のない生活がしたいわ」と言われてものを無くしてみたのでしょ?
そこで初めて生活が出来ないのに気がついたのです、そうです、ひとつの発見をしてしまったのですよね。
ものを無くすとか整理するとは、やはり新しい生活空間への脱皮なんですよ!!

暑さ寒さ対策で不満解消

広い意味でとらえてみて、暑い寒いという不満を解消することが住まいのデザインということになってもいいと考えます。

建築技術支援協会(サーツ)が住まい手1万人調査というのを実施したそうです。
不満の第1位は暑いで26.9パーセント、第2位が寒いで22.6パーセント、この2つでほぼ半分、第3位が結露で15パーセント、虫やゴキブリの進入が8.8パーセント、風通しが6.6パーセント、以上の合計で全体の8割を占めてしまうというショッキングな結果です。
そして不満点が20項目あるのですが、デザイン(意匠的)が悪いというのは1つもはいっていませんでした。これまたショッキングでしょう。

これだけ性能の良い建築材料が世の中にコマーシャルされているというのに、建築屋さんは、その使い方やその説明がいかに下手かが良くわかってしまいました。
(もちろん小生もその中の一員ですが・・・とほほ)

この結果を裏返すと、暑さ、寒さ、結露、風通しなど住環境をデザインの基本に据えずして創られる住まいは、ありえな~~~~~い(どこかのコマーシャル)ですよね。

そして、お医者さんじゃないけどインフォームドコンセント、すなわちパートナーとしての監理が必要ですね。
我田引水ではなく事実なのです。

住まい方



病は気から?、住まいは器(き)から?、住まい気から?

難しい禅問答ではありません。
1階は居間が何畳、和室6畳が2室、台所に浴室、そしてトイレ、2階には洋室が2室あればいいかな?なんてのが解りやすい間取りのスタートのようですが、こんな条件設定に何か疑問を感じますか?

そんな問いかけからスタートする設計者に出くわすようでしたら、そしてあなたも素直に受け入れてしまうようでしたら、設計料は設計料という名の事務手続きと書類製作及び計算費用になってしまうのかもしれません。
きっとその設計者の考え方には、住まいは雨風を凌ぐ場、外部環境や災害から人間を保護する器というテーマが大きく占めているのでしょう。
その内容の正確さや事務処理能力を買って頂くことになるのですから、悲しいかな何かしら役所発注の仕事を想像してしまいます。
(公務員のかた、特に建築関係の方には失礼かもしれませんね、お許しを)

もっと広い視野からスタートする住まいつくりは、気、意志、希望、からです。
どんな生活をしたいか、どんな人生が楽しいか、親子のあり方は、など。
物理的条件よりも、思いついたキーワードや短文を書くように考えていることを住まいの条件にしてゆくことから始めると、選択肢が大きく広くなりプランが羽ばたいてゆきます。

実はどなたもそうありたいものだと感じていらっしゃるのかもしれませんね。

では具体的にどうするか・・・・今日は禅問答のように、問題提起をして終わります。

(たとえば、住まい方サーチなんて質問集をつくってみたりして試行しています。)