「まちかどけんちくか」すぎはら設計の創業者 杉原 寛 が製作し残された本ブログでありますが、これまで
(株)NTTデータ スマートソーシング 社が運営しております「のブログ」により公開しておりましたが、2018年1月31日をもちましてサービス終了になりますので、弊社が借りておりますサーバーに移転いたしました。
今回、ワードプレスというブログシステムを利用して、PCの他、スマホやタブレットでも閲覧できるようにいたしました。ぜひご覧ください。
まちかどけんちくか・のデバッグ・のブログ
「まちかどけんちくか」すぎはら設計の創業者 杉原 寛 が製作し残された本ブログでありますが、これまで
(株)NTTデータ スマートソーシング 社が運営しております「のブログ」により公開しておりましたが、2018年1月31日をもちましてサービス終了になりますので、弊社が借りておりますサーバーに移転いたしました。
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株式会社すぎはら設計 創業者 代表取締役 杉原 寛 かねてより病気療養中でありましたが2012年5月30日に逝去いたしました。ここに生前のご厚誼を深く感謝するとともに、謹んでお知らせ申し上げます。
当ブログをご覧いただいていました皆様に厚く御礼申し上げます。なおブログは当分の間引き続き公開してまいります。よろしくお願い申し上げます。
(追記:2017年11月24日)
現在の株式会社すぎはら設計 のホームページは以下の通りです。
http://sugihara-sekkei.com
現在の株式会社すぎはら設計 の企業情報は以下の通りです。
http://sugihara-sekkei.com/kaisya-gaiyou.html
作品紹介ページです(作成中です)。
http://sugihara-sekkei.com/sakuhin-syoukai.html
太陽光発電が社会の隅っこで光を発し始めてから何年が経過するのでしょう、人工衛星の発電パネルなどの目的で搭載が始まってからならばおそらく何十年?でしょうか。
建築主さんの相談事の中には「太陽光発電パネルは取付けはどうしましょう?」というのが何度と無く繰り返されてきましたが、ご本人の強いご希望が無い限り積極的にはお奨めしてきませんでした。
地球温暖化防止あるいは環境配慮のためとはいえ流行の投資としては大きすぎて、設計を生業としているものとしては商業的な魅力を感じませんでし、安直に流れにも乗ること自体あまり好きではないからです。
何十年もそんな時が過ぎてきて、今年3月の東日本大震災や原発の事故、身近にも頻発する地震、これらを見ていて沸いてきた思いがありました。
生活に必要な「衣食住」、それらは自給自足できたらいいだろうな・・・・・
うちの母親は毎日畑で野菜作りしています、「食」の自給自足です。
「衣」の自給自足は大変そうだから素直にに妥協しても(笑)、エネルギーの自給自足も出来るようになればいいなあ・・・・・とすごく素直で単純な発想です。
メンテナンスが複雑で自分で出来ない機械に頼るばかりでなく、エネルギーも自己完結できる家がいい、究極は電線に繋がれていない家がいい、でもネットに繋がれてないと「ブログオタク」としては辛い(笑)
売電額が定期預金の金利より有利なのは面白い魅力ですが、近い将来、電気自動車や蓄電池が家庭で安価に手に入るときが来れば昼間発電した電気を夜間使用したり、自動車を充電したり出来たら・・・・
あるハウスメーカーは既に実現していることも知っていますが、さらに発電効率の良い革命的なパネル開発が進んでいるニュースを聞くにつけて日本の大多数の家庭がそうなる気がします。
アシモの指が器用に動くようになった時代がやってきて、「鉄腕アトム」が現実に生まれそうな今日この頃、自分はアトムに介護してもらうかもしれない。
未来を夢見たい、そんな思いも手伝っています。
「群れない、慣れない、頼らない」、これは画家の堀文子さんの言葉です。
たまたま偶然に見つけました、設計に対するスタンスとして自分の言葉にしたい気持ちです。
群れると居心地の良さに目標を見定める眼が心が曇ります。
慣れると苦しいかもしれない挑戦を忘れて新しい発見が出来なくなります。
頼れば安心感から何をするにも体に心に力が入らなくなります。
しかし出来るようで出来ない、そうあるべき、そうしよう、いやきっと出来る。
これを読まれた方はいかがですか?
そんなことしたら孤独と疎外感を味わうだけと一笑にふしただけですか?
後悔の無い生き方を考える上で良い言葉ではないでしょうか。
作品集サイト、「まちかどけんちくか」の「数寄に住まう」の家づくりプロセスをアップしました。
「まちかどけんちくか」はアップをスタートして早いもので12年目を迎えています。
デザイン性のある洗練されたサイトを目指してスタートしましたが、手作りの枠から飛び出すことも出来ず、そのもどかしさのストレスに耐えてまた趣味の高じた末とはいえ何度も編集をやり直してきました。
しかし何時からかそのストレスを感じることが無くなり、この仕事は営業行為というより記録を残すのが本意、あるいは淡々と書き連ねることがこのサイトの力、受験勉強の頃の「継続は力なり」という言葉が耳につくようになってきたからでしょうか。
12年も経過するともうこのサイトの存在そのものが安定を約束しているかのような錯覚に陥ってしまっています。
めでたい自己満足、まさに建築の設計屋の成れの果てです。
まちかどけんちくかには過去の現場を含めていろいろな作品をいろいろな側面から公開しています。
今回はT字ハウスとホームイズハウス、木の香りとオール電化、それぞれの家づくりのプロセスの整理が出来てきましたので公開しました。
これからも忙しい時間を割いて続けていくつもりです、みなさん家づくりの参考にしてください。
建築情報サイト「建築ブックマーク」にて「挟土秀平と岐阜千成寿司」が更新されています。
建築主さんとの出会いから基本設計がまとまるまでの流れ、そして実際の工事の流れ、さらに完成まで、時系列で画像を中心にまとまれられています。
「まちかどけんちくか」には他にも多くの作品をまとめてあります。
是非ご覧ください。
最初にサイトを立ち上げたのは1999年2月。
テーマは真正面から真面目に「家族」でした、充実した家族生活とその容器である家、その頃の私自身の思いを満々に満たした内容でした。
読んでいただき設計までさせていただいた建築主さんもいます。
その方に教えていただいたのは、サイトから個性と人間性を広く知らせることでした。
もちろん2011年の現在もその点は変わりありません。
さらにグレードアップして作品の紹介だけにとどまらず現場のプロセスまで踏み込んだ内容を詰め込んだのが2004年の頃、
これは中途半端なまま仕事に埋もれてしまい2011年を迎えてしまいました。
あるきっかけから一念発起して出来たのが今回の「まちかどけんちくか2011」です。
1.作品集は「住宅・建築ギャラリー」として新しい作品も加えてあります。
(一部製作中)
2.画像をデジカメの画像の原版から変換し直して大きくて綺麗なものにしております。
3.工事のプロセスはより詳しくデータを増やし、さらに設計段階での建築主さんとの
打合せ経過を書き加えてゆく予定です。そのための構成変更をしました。
4.何を特徴としているか何を得意としているかをハッキリ分かる構成になっています。
6.文章を推敲しなおして陳腐さを取り払いました。
7.ここが一番大切ですが、家づくりのツールとしての要素を盛り込んでゆく予定です。
宮城県沖地震の再来か!
マグニチュード8.8は凄いですね、東京にいる弟に安否のメールしたのが14時59分、大丈夫と書かれた15時11分の返信が来たのが20時頃でした。
一気にたまっていたメールが受信された感じです。
連鎖現象で東海や東南海の震源が動き出さなければいいのですが。
「まちかどけんちくか」とひらがなでグーグル検索してみると、おそらく国営放送局のまちかど情報室やまちかど建築展などがあがってくることでしょう。
まちかどの後のけんちくかを打ち込むとトップ表示してくれます、当然ですよね唯一ですから・・・・きっと孤独な存在なんでしょう?
まちかどけんちくかは「建築家」ではなく「すぎはら設計」や「杉原寛」の装飾ことばを指しているのではないんです。
「けんちくか」は賞をたくさん取って有名な「建築家」ではありません、カリスマ性もなく一流大学も出ていません、けれども建築が好きで一生懸命勉強しています。
いつ努力が実るか分からない、実るとも思っていない無欲さが肩に力が入っていなくてお付き合いが楽な存在でありたい。
発想の奇抜さや時代を写し取ったようなデザインでマスコミの注目を浴びることで存在感をアピールして自分の社会的価値を揺ぎ無いものにしたいというベクトルは向かっているのだが、それを最終目標にはしていない。
政治的人脈などもろもろの人脈が武器とも思えない。
ここまで書くとまるで世捨て人みたいですね(笑)
考え方のベースにあるのは「生活の容器」とか「人生の場」といったこと。
デザインからは非日常性を感じるように、逆に日常性や生活観から個々の人生を充実させてくれる「住まい」。
ひとりひとりの建築主と向き合ってその人の「住まい」の具現化してくれる「けんちくか」はどこの「まちかど」にも存在できるはず。
これらの思いを凝縮した言葉だったのです。
今年の冬は私の住む揖斐川町にも雪の降る日が例年より多いようです。
外気と室内の温度と湿度の差が激しくなるほど起きるのが「結露」という現象です。
残念ながら建築設計を生業としている私の家でも起きてしまいました!
昨年の春にリフォームした離れの北側の娘の部屋がその現場です。
何といってもいまだに燃費の安価と信じられている(?)石油ストーブで暖を取っているのですが、これは水蒸気の発生源としては最悪の存在、部屋の換気とペアで湿度調整を人間がやらないと大変だということを今さながら再認識させられました。
北側と西側にあるシングルガラスのサッシの内側は水滴でビショビショ、空気の澱むその反対側の床と壁の交差する部分、下の隅の表面がびっしょりです。
床材は竹の集成タイプのフローリングなのですが、ベッドの下に隠れていただけに表面にカビが生えてしまったのです。
これは大変と、天井裏を点検口から眺めてみたのですが、これまた不思議と金属屋根材の裏面にも鉄骨梁の表面にも結露は認められなかったのです。
つまるところ、単なる室内の表面結露と安直に判断してしまいました。
竹フローリングのカビはカビキラーに助けてもらって、クロスのたるみは部屋の換気をこまめにすることにしました。
除湿機やエアコンの設置も考えましたが、あわてて判断するのはやめました。
ただし、サッシの結露は病気の原因にもなりかねないので掃除しておいたほうがいいようですよ。
後日談はまたお知らせします。
スマートフォンていうのは何?なんて恥ずかしくて訊けない。
携帯電話がデスクトップパソコンの外出持ち出しようのようになる時代が早く来ないかな・・・なんて考えてパソコンショップで雑談していたのが数年前。
ところがすでにその頃、日本以外の外国ではすでに存在していたと聞いてショック、日本だけがガラパゴス状態だったとか。
昨日だったか作品データ提供している『建築ブックマーク』の関さんからスマートフォン用のHPを作って近く公開されるとの電話があり、これもガラパゴス状態の町、揖斐川町に居てハッと気ずかされた、・・・知らないうちにすぎはら設計さんの作品もスマートフォンで閲覧できるようにしていただけるようになるんだと・・・・
なんと最近ではPCよりスマートフォンからのアクセスが多いとか、知ってました?
2011年、正月から大切なものを拾ってしまった気分!
皆様、本年も宜しくお願いします。
建築の設計には基本設計と実施設計があるのはご存知でない方のほうが多いのは当然ですよね。
概ねの背骨となる基本的考え方を表現する、それを具現化する、どんな物事もその順序を辿るのが常識です。
ところがどれだけ緻密な実施設計図を作成しても実際に満足できる建物が完成しなければ絵に描いた餅です。
そんなこと言われなくても当たり前です。
そこが監理という分野なのですが、これが想像以上に難しいのは同じ世界に身をおく諸兄はご存知のはず。
大雑把によく言うのは、設計なんて年数さえ重ねれば見よう見まねで誰でも出来るよ、しかし監理はその何倍も勉強してない者には至難の業なんて。
設計時点での検討事項も山ほどあるけどしらみつぶしの粘り腰で乗り越える、しかし現場でのそれは設計時点では想像出来なかった事柄がそれに加わるといった感じです。
特に建築主の考え方と現場サイドの考え方のズレを埋めるのは中でもたいへんです。
一つ一つの現場でのエピソードを糸口に監理の面白さや経験から得たエッセンスが浮かんできます。
その時点でのストレスは身に重いのですが、完成して数年もすれば建築主さんと思い出し笑いを交わすことになってしまいますが。
名前を書くと差しさわりがあるかもしれませんので書きませんが、友人が関与したという愛知県内のある施設のコンペの話をちょっと。
金沢兼六園近くにある市民に人気のある美術館、といえばもうご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
そこを設計した建築家といえば・・・・。
ご存知の方はその様子やプラン、企画の面白さを思い浮かべてください。
ほとんど同じコンセプトではないかと思ってしまう応募作品の絵が友人宅にありました。
もちろんそんな感想を即座に言ってしまった私に・・・そうなんだよ、やっぱり一度当たると誰でも二匹目のドジョウを狙ってしまうんだろうね・・・
どこがどうだったかという詳細はあえて書きませんが、それ以上に関心したのは絵のシンプルさ。
強調して訴えたいポイントに絞り込んで、ほとんど絵のみの表現になっていました。
細かな説明文字はありません。
だけどよく分かります、思いが。
プレゼンにはご本人と構造担当と設備担当がかなり具体的な部分まで説明されたとか。
友人曰く、たったこれだけの絵だけれどかなり計算しつくしているようだった・・・・
そして続けて、地元の市民審査員が外から中が丸見えだけど恥ずかしいなと質問していた・・・・だとさ。
有名建築家さんのコンペプランの作り方に勉強させられたことも大いにプラスでしたが、自分の仕事に文化性を持たせることが出来ると幸せですね。
現実の仕事の中でそんな思いを持ち続けることはそんなに別世界のことでもないと感じています。
省エネ住宅や気密断熱住宅が業界用語にしか聞こえなかったのですが、エコハウスなんて言葉が飛び出してきました。
エコポイントがマイレージくらいの市民権を与えられたような印象を感じます。
たとえばサッシを内側に取り付けて二重にすると1万5000ポイントだそうです。
夕べも民放で言ってました、500万円に対してある自治体では150万円相当のエコポイントが帰ってきます・・・なんて。
こうなってくると補助金なんて面倒くさい手続き手数料ですべて吹き飛ぶ印象から脱却、主婦層やOLにも浸透しそうで民主党さんがんばって!!です。
住宅がハイブリットカーに見えてくる。
だけど喜ぶのはハウスメーカーだけかな?揖斐川町(私の住む町)の工務店さんはどう考えているんだろ?
後ろ向きでなく明るく受け止めてやって欲しいんだけど、相変わらず行政の援助なんて考えないで。
小泉元総理が自民党をぶっ壊すと一種の住民参加の選挙を訴えたのはもうすでに過去の出来事。
実はとっくの昔にひび(建築ではクラックといいます)が入っていたのを今更ながら気がついてどうするの。
地元の行政に意見メールを送ってもちっとも返事がない、返信しないならご意見くださいなんて書かなきゃいいのに・・・結構いいこと言ってるのに・・・これにもエコポイントつけてくれない?
民主党さんは選挙期間中のインターネットによる選挙運動を禁止した現行法を改正するらしい・・・・何?今頃何言っているんだろ?
これでは自民党さんが住民参加をいくら訴えても壊れてしまうはずですよね。
かの行政は年がら年中選挙運動期間中と勘違いしてんだ、そういえば更新頻度が低いもんね、返信がないのも変な風に納得してしまう。
またまた企業献金でもめてますが一人一人から政治献金してもらうシステムを法律化してしまっても今ならちっとも不自然でない気がする。
そんなことを単独で実行している国会議員さんもいらっしゃるようですよ。
肝心なエンジン的人物が渦中にあってはどうなることやら、ネットで献金なんてオバマさんの得意分野なのにどうして後を追わない日本の政治家は?
今回だけは自民党流にやってみてはどう?
地元の政治の流れは自分が生きているうちに企業から住民本位に変わっていくのか不安な雲行き、相変わらずレベルの低い選挙運動の噂ばかり、あくまで噂ですが。
私はエコハウスなんて20年くらい前から取り組んでいるのに、(ここが一番言いたいこと)知ってくださっていたのはホームページを閲覧してくださった皆さんだけでした。
インターネットと住民参加、企業献金から住民の直接献金、エコハウスと環境配慮、25パーセント削減とハイブリットカー、太陽光発電。
底に流れているものはみんなひとつ、方向も同じのような気がしますが。・・どうです?
去年の暮れのある日の出来事です。
設計打合せを建築主の方としているなかでこんな質問というか意見をもらいました。
「住宅の気密を良くすることがエコに繋がるのは分かるのですが火事のときに逃げられないことがあるようですね」と・・・・
私がきっちり計算されたうえでの真面目な施工の気密を行うと、健康にいい家、エネルギー効率のいい環境にやさしい家になるとたまに目をむいて力説するからかもしれません。
彼曰く、火事のときはその気密が仇になって家中に煙が充満、しいては逃げ遅れて綺麗な姿で死亡なんてことが多いと消防署に勤めているご友人が言っておられたとか。
昔の家ならば確かにスカスカに通風状態、暑くて寒いけど火事になっても燃え上がってしまい煙が充満なんてことが少なかったとか。
確かにお説の通りで妙に納得してしまいました。
ということは、健康にいい家は火事にならないようにする、例えば延焼のおそれのある部分の防火処置を怠らないこと。
有毒ガスを発生しない材料を使うことつまり自然素材かな、排煙処置ができるようにしておくこと。などなど考えていました。
とは言っていてもいざとなるとどうなることやら?
結局はそんなこと神経質に心配していても仕方が無いか、何もかも満足できる家なんてあるわけないし。
・・・・・といくうことで話は終わってしまいました。
皆さんはどう思われますか?
私はむしろ至れり尽くせりを望みすぎることのほうが自分にストレスを与えることになってしまうと考えてしまいます。
話の焦点がずれているかも知れませんが、人事を尽くしてゆったりした気持ちで過ごせる家がいいですね。少々の欠点は目をつむって。
設計者なのに可笑しいですか。
あけましておめでとうございます。
設計事務所を開設して30年以上も経過してくると若い建築家さんに見えないものが見えてくる反面、見えなくていいものまで見えてしまい気持ちが曇ってしまうこともあります。
新年が明けてたった1時間前でも「去年のことですが・・・」なんて言葉を置き換えるだけでも気持ちを新たに出来てしまえるなんて日本人はいい習慣を作ったものです。
仕事は相変わらず忙しくさせていただいています。
・・・というより線路のようにひとつの仕事に平行するように常に課題を設定して同時進行で進めていくという考え方ですので、仕事が暇で困るということは今だ嘗てない。
この仕事を完了したらどれだけの収入が入る・・・なんてのは疲れませんか?
人生の終わりに同時に仕事が完了するというつもりで毎日を趣味の時間で埋めるが如く忙しくしてゆく。
建築構造の勉強をやり直してみていますが、何故か私には忙しく付き合いにゴルフ三昧より気持ちが落ち着いて楽しい。意匠のアイデアを考える作業もしかり。
ちっともカッコつけてないんですけど。
本年も宜しくお願いします、どこかで読んでくれている皆様。
今年も今日が最後の日になりました。
この一年も多くのみなさんにお世話になり、ありがとうございました。
普段お付き合いのある方々でこのブログを覗いて下さっていることを期待して感謝の言葉を書いています。
年末のご挨拶なんて建設会社の皆さんのようにあちこち挨拶回りする習慣も無いくせに自分の非礼が気になる始末です。
元から派手な営業行為は主義ではないし、したくも無い、否似合わない。
天から与えられたことを黙々と毎日こなすことが最大の私なりの営業行為かもしれない。
ただ黙々とこなすだけではなく、進歩の跡を小さくても何かを残したいと常にもがきながら進むこと。
そういえばこのブログが広義の営業行為かもしれない。
普段の建築に対する考え綴って公開し続けること、これが大きな力になっているように思う。
他にアピールすることもありかもしれないが、自分自身に再確認させている。
性能のいいナビは積んでないけど自作の地図でとんでもない道走って違った方向へ行ってないか確認している自分が居ます。
建築も結局は人間性が出る仕事。こんな生き様を見つけてくれる人に出会えることを願っています。それが自然体。
来年も宜しくお願いします。
今日は真面目な話題です。
若かりし頃はデザイン力を駆使して所謂売れる作品、賞の取れる作品を目指していた時期が続いていました。
そのために三次元の汎用CADのアーキキャドなんて当時としては高価で難しいソフトをマスターしました、もちろん今もプランニングには使っていますが、その方向性に何時しか疑問を持つようになりました。
それは木造の住宅を多く手がけるようになってきてからです。
最近は聞かなくなってきましたデザイン力を武器にした住まいの達人や匠番組、非日常性を感じさせる異空間の住まい、住宅を作る人たち。
彼らと同一線上に見られたくない、これ自体も独りよがりにも思えますが、人の生活に必要なものは本当は違うのではないかと、そんな思いを持つようになりました。
非日常の空間を日常である住宅の中に持ち込む理由や必要性は、確かにその趣味のある人々のものであって、永い人生の一断面にしか過ぎない空しさを感じてしまいます。
良いものとセンスの良さに囲まれた生活は、充実感と良い感覚を生む環境を作ってくれることはもちろん重要です。
それすらも考えず設計に臨んでいる設計屋は、私個人的な見方からすれば周りにも居ます。
順序からするとやはり人間の生活の容器としては、生活の山や谷の永い営みを見守ってくれる存在でありたいという思い、身を守る、暖かい、涼しいといった、ものを食べて美味しいと同等な位置づけで住宅を捉えて作ってゆくのが自然な考え方だと思うのです。
非日常的な異空間は一年に一度くらいはいいのですが、普段はやはり「美味しい」にはならないのです。
仕事を確保のための営業行為はほとんど興味のないけんちくかさんです、私は。
今は構造セミナーがマイブーム、学生の頃、手を抜いてしまっていたことへの償いもありますが、何故か自分にあった道なのでしょう、結構楽しみなんです。
資格を増やして生活の糧なんて感覚は皆無です。
ちょっと宗教的ですが、お与えというか大きな力を感じて抜け出せない感じです。
きっと幸せな運命にあるのだと思います、仕事に関連することを好きで生きてると、仕事が湧いてくる。
ある意味贅沢、よく考えると当たり前、高校の体育の時間、柔道の先生に教えてもらった自然体かな。
やっぱり、けんちくかさんは自己満足が好き?
こんな人がいい建物創ると思うんだけどなー。
地震が多発する時代に入ったのは多くの人が知る事実、けれど一般には知られていないことがたくさんあります。
本当は震度7なんて地震が発生したらほとんどの現存する木造は壊れますよ。
なんてショッキングな書き方をしても許してもらえそうなアバウトなデザインの私のこのブログ・・・関係ないか
当たらずとも遠からず。
あの有名な元建築士さんが事件を起こした時、同じ建物を限界耐力計算法という構造計算を行うとまんざら成り立ってしまう。・・・なんて話を聞かれたことはなかったですか。
その矛盾を追及しようとしていて国を相手に裁判まで考えていた人がいたとかいないとか。
構造計算は所詮、仮定。
もっとも、技術的知見というやつに元ずく仮定ですから専門家の世界でしか許されない仮定です。
誰でもわかるのは地震は動くということ、当たり前の話ですが限界耐力計算が使用できるようになるまでは地震は動かなかった、振動するという事実を静的な力に置き換えて計算していました。今も現実的な計算としてそれが主流の計算法なんです。
もちろん偉い先生方が技術的知見、膨大なデータから経験科学的に決めた係数を建物の重量に掛け算した力が建物に水平力として働くのが地震だという仮定です。
よく考えると恐ろしい仮定だと個人的には思うのですが。
どう思われます?
動くものを止まっているよ・・・と仮定するんです。
そんなバナナ・・私、今バナナ食べてます。
地震が地面を通じて建物に入力されます、しかし、その動きが決めたれたように一定に揺れるわけがないでしょう。
まあそのあたりも考慮に入れて安全率を見ているようですが、建物の個々によって地盤の性質によってみんな違う動きをするはずです。
要するに人間のすることに完全はないということ。
こんなくくり方では、投げ出したようなものですよね。無責任おじさん。
でも計算やってない建物は怖いですよ。
寺田虎彦先生は、怖さを知れば怖くない。 だってさ。
今日もこの時間、午前3時前には目が覚める。
お教えできない事情があります。・・・・なんて書くと次を読みたくなるでしょう?
こんな血流の見えるようなブログを書いていると簡単に本音を公開しちゃっていいのかと心配になると思われませんか?
一日に200人から300人がひょっとしたら覗いてみえる、私の気持ちを。
でもその半数以上は通過するだけの人たちだと思いますが・・・
ブログなんてむちゃくちゃ多くの人に見られていると思いきや、意外と面識のある方々しか見ていられないようにも思う。
なぜかといえば、それ以外の方々は私の思いに興味がある訳がない・・こんなおじさんの呟きに何てことないはずです・・・(笑)
この・笑・記号自体おかしいでしょ、おじさんくさくて。
毎日、毎日、設計図のことばかり考えている人間は機械のように思えるかもしれませんが、こんな匂うような話題が書きたくてウズウズしています。
脈略のない内容ですが最後に一言、私のような設計屋に仕事を託すと本当、お得ですよ。
自分に素直で嘘をつけないオヒトヨシ、欲がない分時間かけてじっくり作ってしまいます。
詳しくはではまたおいおい説明します。というか読んでると分かってきます。
昨日は耳障りの悪い書込だったようです。
自分でも書きながらもいつもの自分でないように感じました。
もともとネチッとした人間関係というのは嫌いな方でさっぱり系に居心地の良さを感じるようです。
建築の設計屋も人間の感情を持った動物ですからお許しを。
もっとも、このブログ自体がそんな忌憚のないところを書き込むために他のホームページとは切り分けたのですが。
人間は一つの集団をつくると、その中で通用する常識を作ってしまう動物のようです。
私はその常識にすごく反感を覚えます。
何故かバランス感覚の無さをすぐに敏感に感じ取ってしまうからです。
そんな方は結構たくさんみえるように思いますが。
特に仕事に関する常識というものを作ってしまい、それを法律化して、治外法権かの如く世界を作ってしまう人種は多いように思います。特に専門家の職業である建築士は・・・
一般社会から見て特殊な談合なんて意味深な世界は大嫌いです。
またまた問題発言でしたか・・一部の人にとっては。。。
でもだんだん死語になりつつあるようですが。
今日は日曜日、何か予定が入っていたような記憶があるがそんなのどうでもいいや。
だいたい体を休める日なのだから、日曜まで予定を入れようとする習慣や常識はもうやめよう・・・個人的に
実際のところ日曜日まで仕事に絡む予定や設計打合せがあると月曜日が疲れてしまう、能率が上がらない。
と言うことで、土曜日はオーケー、日曜日はノー、と心に決めてしまっている。
これを他に大声を出して言わない。関係のない人に気を悪くされても困るから。
ところがところが、自分の考え方をズーズーしく他に強制する田舎臭い勘違いおじさんが近い距離に居る。
正直、口をきくのも嫌、存在を考えるのも嫌、勝手に生きてりゃいいのに他人の生き方まで勝手に決めたがる奴。
そのズーズーしさと裏腹に表と裏の世界を作りたがるいやらしさ。
こっちを向いているときとあっちを向いているときの話すことが全然違ってしまっている。
田舎は人間関係が濃いから・・・とんでもない・・・だからこそそうなんです。
こんな人、あなたの周囲にも居ませんか?
何でもアリの筋道のない節操のない生き方、生活のためなら嘘もアリ。
私はそんな生き方をしている人はいつかはきっと後悔する日がやってくると思います。
・・・・だから日曜日は必ず自分を休める日にしています。
ということで、読んでる人には迷惑なくらいな文章には真実が隠れています。
■「今日の現場監理」と題して現場で拾った話題を投稿していましたが、お世話になっているさくらインターネットさんのブログスペースが携帯よりのアップが可能になったのを知り、新たに「けんちくかのおもちゃ箱」なるブログサイトを立ち上げて、こちらへ携帯からアップできるようにしました。
体の一部になってしまっている携帯ですから、ツールとして面白い広がりが出てくることでしょう。
同時に過去に立ち上げた趣味ブログのいくつかは整理することにしましたので宜しくお願いします。
オリンピックが終わっていつものように「私の責任です、今回負けたのは」という言葉に溢れかえる、かの星野さんも。
勝負を糧に生きていかなければならないスポーツ選手の世界での「勝ち負け」と建築設計のそれとを明らかに履き違えてしまっている、履き違わざるを得ない状況にある、履き違うのが当たり前の時代、かも知れない。
仕事の発注を受けたこと、それ自体がゴールになってしまう、ゴールだと考えている。
出来てきた建物は迷惑顔でそこにある、私にはそう見えてしまう現実を感じています。
作れる悦びはどうでもいい・・・・・そんな設計者がいる以上は角さんが活躍したいた時代に逆戻り。
建築設計の世界での負けは負けではなく、むしろ勝ち。勝ちは負けである可能性を残す。
勝負は出来上がった建物が語ってくれる。
ここのところの私のブログに対する姿勢はちょっと懐疑的、ブログは更新しなければその価値はないという考え方ですが、何故か毎日まるで他人のブログを覗くように自分のブログを見ている(読むんじゃなくて見ている)。
過去の全盛期よりマスコミもブログの話題を取り上げることも無くなってきたが、だからこそ本来の価値を発揮できるのもこれからという気がしている。
ところが、書き込みはコマーシャルの間に横文字コメントが満載(すみません私は国際派は大学受験以来離れています)、まるで「もうブログなんて辞めといたら?」と言わんばかり。
ところがところが、建築の設計という小さな枠の中に住みながら大きな注目を集めてしまっている現実にますます奮起(心の奥で)しています。
下手の横好きも好き(ちなみに数奇屋の数寄は好きでもあるそうです)には違いない。
先日偶然試験会場で25年来お会いした旧友には、たぶんネットで私の活動をわき見してくれていたのでしょう、「本当に杉原さんは建築が好きだったんですね」という言葉を掛けられました。
そのときは私が構造の慣れない試験会場に現れたからかな?・・と、キョトンとしていましたが、時間が経てばシミジミいい言葉を頂きました。
・・・ありがとう・・・
何か新しい発見は無いかと暗中模索の毎日です。
ごく最近、ある方から以前このブログにも書き込んだ「地下室を作らせてください」なるタイトルについてのメールを頂きました。
地下室の言葉のイメージは湿度の高い良くないものを感じたりしますが、まさに結露で散々な目に合った・・・といった内容も含まれていました、反面、林雅子さんの「角のない角の家」にあるような家の換気機能を高める存在感の在る地下室にもあこがれているという内容にも触れられていました。
このところ構造設計一級建築士の講習を受けて、受かりもしない終了考査を控えている日々が過ぎ去っていく寂しさを味わっている私はこんなことを思いついたりしています。
住宅設計特に環境設計に興味ある友人も言っていましたが、地下室に地下という一年を通じて常温状態を生かす、地面近くの通風を生かすだけでなく、大げさかもしれませんが核シェルターならぬ耐震性の高い非難シェルターの役目も負うことが出来るはず・・・・ということです。
ここまでであればすでに商品化しているメーカーさんもチラホラ聞き及んでいますが、半地下とすることによって人目もはばかる完全なシェルターにするのではなく生活空間として家の中心部分に関連する形で存在させることが出来ると面白いです。
出来れば鉄筋コンクリートで作られるのが理想かもしれませんが、木造でも命を守れるくらいの耐震性能は実現できます、例えばその部屋だけは耐震の壁量を集中させるとか。
最近構造のテキストを読んでいるせいでしょうか・・・時間があるとそんなことばか考えています・・・
年金問題と医療保険問題の話題で世の中もちきり、騒ぎすぎて騒がなくていい人まで騒いでしまっている。
建築基準法の改正がもたらす不況問題や道路特定財源の問題にしても、どうして蜂の巣を突っつくような後ろ向きの話題にばかり注目が集まってしまうのでしょうね?
いままで隠されていた問題を白日のもとに晒してみんなで考えることには賛成です、日本の国が大人の国に生まれ変われるかの境目に来ていることの証拠ではあるのですが。
それにしても物事の本質がどこにあるかを惑わせるような報道はいただけません。
建築基準法を改正して、具体的にどんないい世の中にしたいのか?(単なる弱いものいじめか)
医療保険を見直すことは、人の健康にとって何がいいのか?(そんなのあるわけ無いか)
道路特定財源の闇の部分を暴いて無駄ずかいを少なくすることは必要に決まっているのですが、どうしてそれを許してしまったのか?(どうせ品の無い既得権者のみなさんがなし崩しにしてしまうさ)
なんでもいいけど、そんなの関係ない!
健康は住まいの設計を考え直すという切り口で、問題解決にならなくても自分の力で近づけるということ・・・・分かります?もっと前向きに建設的に明るく切り替えましょうよ。
「室内環境に力点をおいた設計をしてください」と設計者に注文をつけるだけです。それは。
どうせ政治家さんや官僚さんのやることでは何時のことだかわかりゃしないに決まっている。
建築基準法を改正して新しい資格を作れば何とかなるという結論が甘すぎる、安直すぎる、過去に何度と無く繰り返されてきた、あきあきしてしまう手法。
そしたらこちらはそれを逆手にとって専門家の差別化、スキルアップで報酬を上げちゃうぞ!!!
明るく生きましょうよ。
最近依頼を受けた案件の書類作りでフラット35のサイトを閲覧していて分かったのですが、その適合証明技術者が地元揖斐川町では私ひとりになっていました。
池田町ではひとり、大野町と神戸町、安八町にも不在です。(こちらで検索してみてください)
適合証明技術者はフラット35を利用して家を建てる方に、その技術基準を満たしているようにしてあげる水先案内人です。そしてそれを公的に証明書を発行する役目を負っています。(詳しくはこちら)
フラット35は家作りを考えてみた方は一度はお聞きになったことのある言葉かもしれませんが、最近テレビのコマーシャルも聞かなくなってしまい、おそらく一般にはあまり知られなくなっているのではないでしょうか。
制度の形態を変えたものの過去の住宅金融公庫住宅の内容と技術的には変わってはいません。
変わっていないというのは技術基準の確かさにおいて変わっていないという意味ですが、守らなくてはいけない技術基準も過去のそれに比べて充実していますし、家を建てるときに守らなくてはいけない工事基準が示されていて、それを現場検査で保障できます。
低利で固定金利ですから月々の返済額を計画できます、新築だけでなくリフォームや中古住宅や中古マンションの購入にも結構大きな資金利用できます。
建築関係の話題で世の中を騒がせている昨今、そんなに大きな支出をしなくても我が家の一定の品質を守ることが出来るこの制度、振り返って考え直してみる必要を感じます。
夕べもふと思いついたというか、よく考えれば必然性のある思いつきです。
ネットやオープンハウス、(既知の知り合いを含めて)知り合いのご紹介などからプランの作成から設計監理までお付き合いくださり、紆余曲折の末、完成まで短期間ではありますが苦楽を共にしてくださった建築主の皆様がたくさんいらっしゃいます。
もちろん、たまにお会いしたり電話で会話したりすると思い出話に花が咲きますが、せっかく設計監理という建築への直視スタンスで時間を共有し、興味も持って頂いたのに、当然といえば当然ですが完成したらそれが薄れていってしまうのには、以前より寂しい思いを持っていました。
そこでネットお宅の私が思いつく結局こんなこと。
作らせて頂いた建物に関するメンテナンス知識やヒント、建築していた頃にはそんな余裕も無く思い浮かべることも無かった建物の価値、甘さ辛さを感じないたわいもない建築にまつわるよもやま話など、そんなこんなを通じて繋がっていたい。
不特定多数に発信するメルマガより親近感のある、ひとつの枠を感じる定期的なメールをそんな方々に発信していたいと考えたのです。
糸電話は糸が切れれば声が聞こえづらくなる、繋がっていれば「意図」電話にも変身(返信)可能です。
施工業者さんの定期点検より発展的で暖かみのあるものが目指したいですね。
先週の休日、建築士会の行事で建築相談のカウンターに座っていました。
よくある相談なのですが、「住まいを新築したいのだけれど私はどこへ行ったらいいの?」と目を点にして返答を求めてくるのです。
とにかく世の中には「これが最高の住まいです」とばかりに全てが我田引水のスピーカーで耳がよく聞こえなくなるほどです。
確かに今の厳しくなった基準で建つ家は丈夫なのですが、建てようとする本人がどうしていいか分からなくなるほど情報過多です。
本当にお気の毒です。
過去の一時期のように住宅を創るのに設計者を代理者として設計と工事を進める形(設計監理)をまったく知られてないという状況ではなくなってきているようですが、でも相変わらず「そんなの聞いたこと無い」という方は多いようです。
どこの誰かは知りませんが、マスコミを利用してある種の妄想を抱かせてしまうかのような説得の仕方を見るにいたっては、ますます相撲ワザの猫だましのようなものです。
どれだけ時代が変わっても、工法が変化しても自分のほしい住まいはたったひとつ、けっしてメーカーが契約というレールに乗せて全てを与えてくれるものでもないのです。
自分の足で確かめることから全てが始まることを是非忘れないでください。
毎日の設計と現場監理を通じて、常に住まいに対する思いを反芻している人間の人としての中立な意見を確認して欲しいものです。
一生を賭けて築き上げてきたものを無駄な投資にしたくないものです。
あの日のイベントに来てくださった方の目を思い出すとそんな思いを確認させられました。
竣工、引渡しから数ヶ月あるいは数年後の様子は現場監理をしている人間にとって興味があるものです。
ここ数日間に何件か時間を作ってお邪魔してきましたが、やはりというお話を窺うことができました。
設計計画の時点ではデザインの良し悪しがよく話題に出てくるものですが、数年を経過してくると聞かれなくなってきます。
確かにそれに対する満足度が高かった人、低かった人の差はあるのかもしれませんが、興味は薄れてしまうのでしょう、特に住まいという生活というライブ感のある建物では。
部分の不具合、たとえば建具や無垢材の伸び縮みなど動きのともなうもののメンテナンスは早期に対処しておくのですが、(ご本人にと取っては不愉快な出来事であるのは間違いないのですが)それ以上に興味のある事柄があります。
それは室内の温度、匂い、など空気感とでも言いましょうか。
これはメールなどでお聞きするより、私自身が体感するのが一番です。
特にこの時期ですと暖房機の運転時間や温まり具合、室内での行動の自由度、肩が凝らないか。
匂いの具合で換気扇の動きも分かったりします、無臭に近い状態であれば大丈夫。
「体が楽な状態で、この時期はうちへ戻るのが楽しみですよ」という言葉をいただくより、私自身が我が自宅の環境と比較するのが一番なのです。
灯油高騰の折、生活費節約に貢献出来ている省エネルギー住宅に満足していますが、それよりも体が楽に過ごせるという健康面が理解を生んでくれているようです。
「建築設計者としての生き方」なんてタイムリーなタイトルになっているとは知らなかったのですが、年末のある日に建築ジャーナルさんから作品掲載の提案を頂いて、これも何かの縁かなと感じるところがあり、お受けしたのです。
掲載させていただいた建物の建築主の皆様や施工に担当してくださった工事関係者の方々には、チャンスを与えていただいたことに感謝しております。
先に書きました表紙のタイトルがこうなっているとは知らされていなかったのですが、まさに「偽」まみれになってしまった2007年の社会現象から想像すれば自明の理。
この数年に竣工した建物を中心に、それぞれのテーマになった事柄をつたない短文に綴りつつ、私としての「建築設計者の生き方」を表現したつもりです。
大げさな表現かもしれませんが、自分がこの世から消えても残る建築物、(否、その建築物さえもいずれはこの世から消えてなくなるのですが)それを創るという作業に誇りと自信を持って望むという心構えを忘れてはいけないと自戒してみる必要を感じます。
望んで入ったきたこの世界でも、生き残るためとばかりに不正や裏ワザに走ることをよしとする風潮は頑として残っているのは事実ですが、それが設計の本質自体までも曲げていってしまうように考えています。
愚直と言われても、その人がこの世から消えてさらに創った建物もこの世から消えても残るものがあるとすれば、「それが何か」を茶化すことなく真面目に考えつつ進みたいものです。
おおとりを飾るように巻末に写真集とともに独り言をボソボソと語るように書かれている文章をそんな思いを持ちながら書いたのだと思いながら読んでみてください、一味違うかもしれません。
「上を向いて歩こう」という坂本九の世界的ヒットがありました。
いつも現場で上を向いて工事の進行具合を見張ってばかりですが、この歌の歌詞の奥深さにふと気が付いたのは夕べでした。
悲しみの出来事に直面すると多くの人は涙がでます、知らず知らずに出てきます。
不幸にもこの回数が多い人はそれを堪えるために上を見ている習慣が出来てしまうそうです。
たまにそんな人に出くわすことがあります、意味が分からないのだけれど何故か上を向いて視線を反らして会話をする人。
一見失礼な対応に捕らえてしまうことがありますが、最近では「この人はきっと何か悲しいにことにあっているの違いない」と考えるようになりました。
建築現場では上からモノが落ちてこないか注意するために上を向くこと、出来具合を確認するために上を向くこと、どれも心の問題とは関係のない行動です。
しかし「上を向いて歩こう」の詩では上を向けばいつも空があり、空は相変わらずの雄大さで慰めてくれる、同様に気を紛らわせてくれる「現場」があるのは幸せな証拠のようです。
そんな意味では同じ「救い」かもしれません。
構造偽装のお陰で心に触れるデザインを軽視するような流れになってしまっていますが、細やかな心で建物を眺めることも必要なのではないでしょうか。
建築基準法改正不況という言葉まで囁かれる様になってしまった準備不足の改正法施行。
誰がそんなに急がせたのでしょう?野党勢力でしょうか?官僚の読みが甘かった?
東大を卒業していらっしゃってもこんな程度の混乱を引き起こしてしまうのだから、構造計算の一つや二つ私たち凡人が間違えても許してもらえないものでしょうか。
だって不況を招いてしまった責任は誰が取るんですかね?
また「すみません」と記者会見開いてそれでおしまいですかねー。
失敗して恥かき話を平気で全国ネットに載せてしまう時代においては、本当に個人個人の責任が重くなってきますよね。
あの人ならば信頼できるからと全権お任せなんてのは古い時代の考え方になってしまいました、建築基準法はもちろん、世の中の出来事に関心を持って生きていくのが当たり前の世の中になりました。
フランスでは国の政治に全ての国民一人一人が真剣に議論しているそうです。
日本人も「難しいから頭のいい人に任せておくよ」なんて言っていると知らないうちに時代から置いてけぼりになってしまいます。
自らの身を託す住宅も然り、振り返って考え直すときが来ています。
お恥ずかしい話をひとつ、自分の個性を発揮できそうな設計が消えてしまった話。
これだけ結論的な書き方をすれば、もう言わずもがな・・・
今年の7月にある小規模の福祉施設の設計に入りましたが、何とかなるだろうと掛かってみたものの仕事量の多さと、契約期間の短さに追いまくられていました。
周囲の人の協力は得られたものの、やはりスピードを上げるには自分でこつこつと描くのが一番ということに気がつき、それからは毎日徹夜をひとりで続けていました。
残念なことにその裏返しは他の仕事への気配りの欠如・・・なんです。
関係者の方が読まれていたなら大変失礼な発言になってしまいます、ごめんなさい。
確かにこの設計の中身は自分なりに把握できて今となれば収穫ある内容の仕事であったかもしれませんが、大変後悔する出来事が起きてしまいました。
それは依頼主の希望する期限に着手できなかったがために、工期がズレてしまうことがハッキリして工事業者の設計施工に切り替えることになってしまったことです。
残念な出来事ではあったものの、今にして思えば、慌てて設計してしまうくらいならばかえってこの方が良かったようにも思います。
振り返ってよく考えてみれば、時間的余裕というよりも、もし中途半端の設計になっていたらという・・・後悔のほうがズッと大きい理由です。
社会保険庁の話題が毎日報じられているにも関わらず、怒りをブログに書き綴る時間が無くてムズムズしていました。
それほど忙しかった(過去形)この数ヶ月でしたが、社保庁の職員さんのように無駄な時間ではなかったのは救いです。
組織の中では常識化していた保険料の横領のような行為は、内部ではごく当たり前で通っていたに違いありません。
これに似た組織のあり方が、実はどこにでもあるのではないでしょうか。
道路特定財源のように、「国の隅々にまで道路を平等に使える」の大義名分を振りかざして、平気で私物化されている国庫金はいくらでもあるのでしょう。
どこかでボタンを掛け違えてしまった社保庁。
保険料を毎月収めていれば、必ず国が助けてくれるはず・・・と信じて疑わなかった自分がバカでした。
いくら自己責任の時代とはいえ、国が個人を裏切るところまでは考えたくは無かったはず。
ここは、銀行を救ったように、よく分からない審査基準で名寄せなどしていないで無条件に一律一定の基礎年金部分は、全て国が責任もって負担しましょうということにはならないでしょうか。
銀行は救えてても個人は救えないのでしょうか?
今回の参院戦の結果はある程度予想できていた。
なんて書くと建築設計の世界から離れるようですが、世の改革を望んでいる人間が思っていたのは、キチッと改革が進んでいないように感じていた、もしくは進んでいたのなら見えるように説明がなかった。
そんな状況で民主党が安部政権の改革ではなく、民主の改革はどうですか?
そう問われると、「民主でもまあいいか」と思ってしまうような状況にあったのだ。
建築申請も偽装事件に端を発した6月21日よりの新法のスタートは、官民問わずに彷徨っているようです。
私の場合、他人事ではないのですが(現に困っている物件を抱えています)、それが自分に対して不利な立場へ追い込まれていくにしても(あくまで建築主に対して)甘んじて受けなければならないと自覚しています。
これがチャンスとばかりに建築主さんに対して建築、特に構造の大切さを説いています。
これが自分で出来る範囲での「改革のお手伝い」であるようです。
それにしても同世代の安部さんに踏ん張って欲しいと願うばかりです。
五体満足で身体的に不自由なく毎日仕事をさせていただいている幸せを感謝しなければいけないのに、何故か不満に思うことはいくつも出てきます。
仕事が思うように進まないことは仕方が無いことと諦めても、体感できないのは手すりなどの生活補助用具のありがたさです。
朝6時半のラジオ体操をはじめるようになってからはギックリ腰になることが無くなり、唯一手すりのありがたさを感じるチャンスは幸か不幸か訪れることは暫くなさそうです。
手すりがトイレのどの位置に、階段のどの高さにあれば一番便利なのかは障害の種類によってかなり差があるのは机上の空論・・・・という幸せ。
しかし、設計を毎日している人間が知らないのは不幸。
ここのところ進めている福祉施設の手すりなどを描きながら、分かっているようで分からないもどかしさに思いを巡らせています。
本日、ある建設会社さんからいただいた情報というか、貴重な噂、生の声。
最近は油が値上がり傾向、過去の歴史が物語るようにリンクする関連商品は値上がり傾向のようです。
とりわけ瓦のお話です。
もとより東海地方の瓦の産地はお決まりの三州が有名です。
中小企業、否、小企業に支えられてきた瓦の製造元を直撃している今回の油の値上げ。
相変わらず競争の激しい建築業界にあっては、製造コストを2倍にするなんて通用する話ではありません。
売れなければ店じまいするより道はないこれまた厳しい弱者の道、同時に生活基盤を失う瓦の職人さんも居るとか。
日本の風土そのもでもある瓦をメンテナンスしていってくれた職人さんを見殺しにするなんて出来るわけもない。
大工さんも不足傾向にある日本の将来、いつの日にか甍の連なる日本の街並みは無くなってしまうのでしょうか?
寂しい限り。
妥協の上手な日本人は伝統の文化さえ妥協してしまうのでしょうか。
毎日の生活を少しでも余裕をもって、人生楽しみながら生きたいものだとの思いを持っておられる方は少なくは無いはずです。
ところが生まれもった性分というか宿命というか、余裕は毎日を忙しくしている中から刹那的に散りばめられた宝石のように存在していると考えてしまう。
ゆったりと大洋のように目の前に広がって、多くの時間を使うのが余裕というのではないと。
・・・・いつかはそんな過ごし方をしたいと内心思っているのだけれど・・・・
最近、完成したW邸、かの建築主から聞けた感想。
電気代がこんなに下がるとは思いませんでした、(建築主自信も想像外でしたが)こんなにいい建物にしてもらって良かったですよ。
こんな言葉は、どんなに小さな声でもしっかりと自分の耳に入ってきます。
設計料なんてもうサービスしちゃいます・・・なんて言ってしまいそう???
嬉しい言葉に生活の中に見つけた本当の余裕を感じて、ゆったりした気分にしばらくは浸れます。
話題はいきなり大きなサブタイトルから始まってしまいます。
先のサミットでも大きく取り上げられた地球温暖化阻止に関する宣言文。
問題は地球規模の大きさですが、ひとりの人間が出来ることは小さすぎます。
どうせひとりくらい協力しなくても地球はどうにかなるほど自然の包容力は大きいに違いない、というじゃな_い。
冗談交じりにノンキに構えているとあなたの孫はあなたのそんな考えを恨むことになりかねないのです。
安部総理の支持率低下の性か、サミット宣言文に対するコメントを述べる表情に悲壮感を感じてしまっているのは私だけでしょうか。
そんなある日に以前各務原の現場でお知り合いになった石川の福田さんからの嬉しいタイムリーなお便り。
夏が近づいてきたからというわけでもないが、屋根の垂木の下端に張ってしまい、屋根通気と熱反射で遮熱効果をだす優れもののボードの情報提供。
特に特別な工法でもなく、シンプルで分かりやすく簡単な施工方法です。
これと気密を組み合わせれば、冬暖かいだけにとどまってしまう省エネルギーは、夏は涼しい省エネルギーになります。
ちょっと専門的ですが、省エネルギーは何かといえば、人間にストレスを与えない工夫なのです。
この簡単でお金の掛からないアイデアは、安部さんも笑顔で賛成していただけそうです。
久しぶりの興味深い情報に、素直に感動。
さっそく設計中のプランに取り入れることにしました。
最近、地元のお役所で過去に指名をいただいたことのない、いわゆる実績のないお役所からメールが入ってきました。
メールアドレスは、会社用、個人用、お役所通信用、銀行用、アフェリエイト用、などなど複数持っています。
レンタルサーバーは大容量にしてセキュリティーのしっかりした会社のものを利用してつまらない迷惑を被らないように、掛けないようにしてあります。
面白いのは、仕事の指名メールをいただいた役所は、そんな多くのメールアドレスのうちの一番古い公開度の高い、つまり最もスパムの標的にされやすいアドレスを使用されていたことです。
ここからは想像の見解ですが、たぶんブログやホームページが検索エンジンに掛かって選んでいただいたのかな?という甘い観測です。
ただ単に作品を公開するにとどまらず、何を考え何を創っているかといった血の通った、体温を感じるブログの存在が効を奏したのかな?
などと勝手に喜んでいました。
最近の新聞紙面を賑やかに飾っている談合問題にも、曇りのない信頼を築けるかという大事なポイント、発注者であるお役所が受注者である建設会社や設計事務所を選定する判断基準が不可欠であるに違いありません。
コンペやプロポーザルでも見えてこない信頼感は、やはりお互いの考え方を知ることの出来るツールが必要なのでしょう。
こんなところに糸口があったと発見した気分を持った指名メールでもありました。
ここのところ大騒ぎの年金の記録漏れ、保険の不払い、などなど。
国の機関は絶対だと信じていたのに、疑う余地も無かったのに、何たる有様。
大会社の傘下にも入れず無力でどうしようもなくイジマシイ生活を強いられる建築士のおじさんは目が点になっています。
大きな組織の力にも頼る術もない建築士、個人の力、自分の力のみを信じて生きていかなければならない建築士。
どこの誰だか知らない東京の建築士が犯した犯罪のおかげで、否応無く大改正される建築基準法と建築士法にあきれ果てて従うしかない岐阜の田舎建築士。
それでも何とか、自分だけでもコンプライアンス、意地でもコンプライアンス。
もし法を犯せば生活もままならない状況に追い込まれる建築士が腹がたつのは、年金を預かってくれているはずのお役人が、すみませんで済むのかよ?
政治家のおじさんもテレビでお互いの欠点を笑いながら指摘しあって視聴率を稼いでいる暇があったら、議員年金でも自分たちの給料でも削ってお返ししますとどうして責任を取らないの?
どうして建築士だけがコンプライアンスなの?
パンドラの箱を開けたくらいではない、ひっくり返して分解してしまった政治家さん?
あなたたちの行動を見ながら、今育ちつつある将来を背負う子供たちに恥ずかしくないの?
恥ずかしい分けないよね。これも地球温暖化の間接的仕業と逃げてしまうか。
定規がないと線が引けない建築士にはどうしても理解できない。何とかしてもらわないと刑務所に入れるぞと脅かされても税金も出したくない。
これだけ書いてもちっとも気が晴れない・・・・・
工事業者と設計業者を同列になりがち区別がつかない、馴れ合いの存在を前提に物事を進めてしまう、建設工事に投資すれば概ね住民は納得するだろう、持ちつ持たれつではないかと真実が見えない、昔からそういうもんだという安直な意見。
そんなぬるま湯とゆでがえる的故郷、揖斐。
生活を支えるという崇高な目的であるにしろ、自分の思う設計を生業とすることは難しい。
しかし生まれた土地の人々に支えられている自分がいる。
矛盾する言葉の羅列に終わりそうだが、そんな現実を考えあぐねている毎日、ある日の朝事務所へ向かう道すがら振り返った池田山と揖斐の空は元気をくれるに十分なすがすがしさであることに気が付いた。
そんな余裕を持って生きている自分は幸せな存在だとつくずく感じる。
周りは自然に挑戦的なコンクリートの立方体に囲まれているわけではなく、逆らうことなく朽ちかけてゆく木造の壁、雨を受け流してゆく勾配屋根。
すべてが肩を張らずに、頑張りすぎずに生きろと教えてくれているようだ。
やはり無粋なコンクリートは揖斐には似合わぬ、木造がいい、揖斐の家。
ハードで重いバックミュージックに乗せて聞こえる透明感のある歌声、シンプルでダイレクトに伝わってくる詩。
昨日不慮の事故で無くなった坂井泉水さんの詩は自信も言ってみえたように、歌詞を大切にした歌声はバブルの崩壊にあえいでいた時代を清涼感で包んでくれていたようにも感じました。
私の世代でも車の中には彼女の歌声の詰まった「カセットテープ」が何本もあり、まだ最近も楽しんでいました。
詩を大切にする、言葉を大切にするということは設計にも言えることです。
果たして自分の住まいがどのようになってゆくのかを知る場でもある設計打ち合わせでは、どのような言葉を使えば意図が伝わるかを考えさせられる場でもあります。
職業の癖でしょうか、つい理屈っぽく専門的になりすぎてしまう説明を、坂井さんの詩のようにシンプルに確実に伝えたいものです。
何年たってもうまく伝わらないものです。
みなさんは住宅の室内空間において天井付近と床付近の温度差が少ないことが、予防医療になることをご存知ですか?
シックハウスを研究している医学者が、気密断熱を気にして作られてきた従来の住宅と、気密断熱を設計上で制御して作られた住宅にシックハウス症候群の既往のある人の協力の下に実験を試みている例があるようです。
同一条件のもとに一定期間滞在していただき、その血圧と脈拍を比較すると明らかに気密断熱を気にして作られた住宅に軍配が上がっています。
そのあたりを勉強されているある知り合いからのメールを以下に紹介しておきますが、私も心して取り入れている設計方針がエネルギーロスを押さえるだけでなく、予防医療にもなっていることに充実感を覚えました。
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すでにご報告済みですが、「シックハウスと考える会」と「安全な住環境に関する研究会」
とのジョイントで健康住宅モデルハウスが昨年完成しています。勿論アイシネンが採用
されていますが、5月15日に研究会の総会と報告会が東大坂本先生や省庁の方々さらに
杉田医学博士(大阪労働衛生総合センター所長)も出席のもとに行われました。キング
ラン・ハウネストもこの研究会の会員として今後活動を開始して行きます。この報告書
は国交省住宅局の名前で出版されています。
報告の中で、血圧測定の比較が発表されました。温度差がない居住空間ではいかに安定
しているかがわかります。協力者は45歳のシックハウス症候群の既往のある男性で
血圧、脈拍の測定結果です。築20年在来住宅の温度差のある結果との比較です。
* 在来住宅での各室の温度と入浴前後の血圧変動
場所 温度 血圧 脈拍
リビング 17℃ 126-84 72
風呂場 6.4℃ 151-101 76
入浴中 風呂湯温度 41℃ 137-78 79
入浴後 147-98 76
リビング 17℃ 124-84 75
* モデルハウスでの各室の温度と入浴前後の血圧の変動
場所 温度 血圧 脈拍
リビング 19.5℃ 120-80 72
風呂場 19.5℃ 131-85 76
入浴中 湯温41℃ 125-82 74
入浴後 134-86 76
リビング 19.5℃ 122-82 75
温度差のない暮らしでは、以上の様に最高血圧、最低血圧とも変動は少ないという事
がお分かりいただけると思います。住環境を良くする事は、予防医療に繋がっている
といえます。予防の大切さを改めて認識したいものです。
今日、日曜日の朝に見た国営放送の特集番組です。
愛知県で話題になった公共工事の談合問題に関連して、公共の工事予算が毎年減少していることもあり、入札辞退者が相次いでいるということに関して、その原因と対策事例を特集していました。
過去の入札では予算の提示も無いまま入札をされていたのですが、最近は工事予定金額をあらかじめ公示されているのが多くなりました。(最近の経験では予定の金額さえ公示せずして行われたことがありましたが、何か統一感のない考え方です)
番組の中に現れた建設会社では、提示された予算で赤字が出ないかを検討のうえ、赤字になるという結論にもかかわらず役所との関連もあり、予算よりちょっと低い札を入れられました。
さらに低い落札者があり、結果は入札できなかったのですが、「赤字になると分かっている工事を粗悪工事に震えながらやるより、落札せずに済んだだけでも良かった」という感想でした。
経営的な事情は各社各様でしょうが、公共工事の受け側の姿勢はこれでいいように感じました。(・・・当たり前のことを言っていても当たり前に聞こえないのが笑えてしまいます)
経営的技術的に自信のある会社がいわゆる「頑張れば」いいのです。
公共工事の「おいしい」ところを守ろうとする既得権や団体の存在が工事を粗悪なものにしていると考えたほうがまともです。
設計の立場での入札でも同じです、だだ予定の予算と工事の内容をしっかり伝えないまま、短期間で稲妻のように実行される入札に出くわすと、どこかで不協和音を発している音源の存在を感じます。
それが大人の世界だと言った人がいましたが、どこに大人の世界があるのでしょうか?・・・大人のほうが子供っぽいですね。
ごく最近ですが、エキスポランドの事故を受けてコメントしていらっしゃった東大の先生が「失敗学」なる学問を体系化されているのをテレビの放送で知りました。
さすがに機械工学の先生だけに今回の事故は「金属疲労」のランクに入り、人為的要素の少ない部類だということです。
ただし現在の段階ではということでしたが。
建築の世界にも「失敗学のすすめ」なる本にお世話になる要素がありそうだと思い、さっそくお得意の楽天ブックスにてネット注文しました。
残念ながら表題の内容も「失敗学」に大いに関係しそうです。
建築工事をする以上、仕上の状態の良し悪しは人間と癌の関係、人間とエイズウイルスの関係にも似ています。
仲良くしたくはないが、一旦現れたら仲良くしざるをえない、付き合いたくない友人のような、もちろんそんなにノンキにはしていられないのですが。
建築を請け負った現場管理者の責任ですとばかりにスジ論を通していても、現に現場養生が悪ければ、監督さんの現場確認が悪ければ、あるいは協力業者さんの不可抗力が防止できなければ、避けたくとも起きてしまうことです。
建築主さんにとって起きて欲しくない傷跡ですが、出来てしまった以上は補修工事を行うようより手はありません。
補修というと補って修めるので中途半端で気分が悪いのですが、この時代にはそれに対応できるプロや科学の進歩が生んだ薬剤や工法が存在しているようです。
そんな方法論を徹底的に研究し実行するのが最大の建築主さんにたいする償いになっていくのでしょう。
大げさにも聞こえる決意表明ですが、何度現場監理に立ち合っても考え直さざるをえない失敗学です。
建築が他の工学とは違う位置関係で人間の肌と接している証拠ではないでしょうか。
面白い話を拾いました。
1は100には負けない自身があると言いました。
それに対して100は1に笑って言いました。
おまえは1のくせして100の俺に勝てるとはずがない、どう考えても小さいからやめておけ。
ところが1は100には負けないものを持っている、勝ってみせる、と言いました。
そこで100は自分より大きな1000に相談しました。
すると1000は1に言いました、おまえは何を言っている、1が100に勝つはずがないではないか。
なんなら1000の俺が相手してやろうか?おまえは負けるに違いない。
ところが1はそれでも勝ってみせる、いや負けるはずがない・・と自身満々だった。
この分かったようでよく分からない話は何のことだか分かりますか?
この話を聞いた人はそれぞれが自分流の解釈をしていらっしゃることでしょう。
客観的な数字の大小、大きさという観点でしか聞こえてこなかったあなたは自分の視野の狭さを恥じなければなりません。
ボリュームの大きな設計の仕事になると目の色を変えて、闇雲に飛びついてゆく設計者がマスマス多くなってきたように思います。
しかしそれもやはり個性かもしれませんが、設計という仕事の性格と使命はボリュームを競うことからは程遠い。
あなたはどうお考えですか?
1は100に負けてもかまわない、といういうより、相撲と野球で何を競うのでしょうか?
何を今更とおっしゃる同じ穴のムジナさんたちがたくさんいらっしゃるとは思いますが、今更だからこんな時代だからこんなタイトルを思いつきました。
建築設計の世界を理解できる人は日本広しといえども本当に少数に違いありません。
ところが悲しいかな誰でもそうであるように自分の身の回りの半径何メートルかは定かではありません、目が届いて気になる生活圏は自分勝手に決めてしまっていることについては人間も犬と同様の縄張り意識のようなもの。
いくら設計の世界に住む人間にとって大義名分があっても外の世界の人々からは単なる犯罪にしかならない例が談合なのでしょう。
業界発展のためという考え方を隠れ蓑にしても、やっぱり世の流れや道徳観に照らし合わせればものごとに紙のような表と裏を作れば生来が善人にはストレスの溜まるのは間違いないようです。
錬金術であるかのように仕事を確保する手段としてこれで大規模な仕事を確保している会社はたくさん存在してきたことでしょう。
またそこで仕事をこなして勉強してきた設計者が現実には世の中にたくさん居ることでしょう。
そのことに目を瞑っているといつまでたっても島国根性の抜けない国民性を笑われてしまいそう。
否、和の精神が潰えてしまうのでしょうか?
どこまでいっても少女趣味の設計者と笑われてしまうのでしょうか?どれだけ頭を下げても人情論や意味の分からない馴れ合いだけで「それではお願いしましょう」なんてなりえないのが設計の営業の世界と考えている。
いやそうあらなければならないと考えつつ齢50うん歳になってしまいました。
いつになっても理想と現実はかけ離れてしまっている、それに開き直らないこと自体が大切な生き方なのでしょう。
今年の6月の建築基準法の改正内容をご存知ですか?
といっても建築の設計を職業としている関係者だけが騒いでいるだけですが、どうしても許せない大きな一点があります。
それは良心に基づいて設計を毎日進めているつもりなのに法令自体が性善説ではなく性悪説を前提にした体系に変えられてしまうと言いたい内容になっているからです。
ピアチェックという格好のいい言葉で表現されているようですが、法改正前までは構造計算を審査する例えば役所の構造担当者と設計者としての一対一で計算方針を議論してお互い確認しあえば審査は通過しました。
ところが法改正後からはさらに第三者機関に適合性判定と称して構造計算の審査を受けることになります。
もうすでに法改正前夜ということでその予行演習かのようなチェックが開始されている行政にも出くわしていますが、ほとほと時間が掛かることには困り果てています。
厳格な審査をした第三者はその意見に責任を持ってくれるのでしょうか?
適合性判定に要するお安くない費用をなぜ建築主に負担させるのでしょうか?
なぜ評価認定ソフトを使った構造計算ならば費用が安価なのでしょうか?
設計監理者という立場に何をもって資格を認めているのでしょうか?
このような厳密な審査を受けなければならない建物規模のボーダーラインが柱間隔6m以上というのも困ったものです。
何故かと言うと公共性の強いものだけでなく小規模なものまでもその対象になってしまうからです。
専門家にしか理解できないような話題で恐縮ですが、問題山積みのままで規制強化だけに走ってゆくやり方は賛成できません。
設計者も意見を持ち選挙権を持つ個人であり国を支える納税者であることを忘れずに、
設計者一人一人に対する評価の方法を法的に盛り込んでいって欲しいものです。
また建築主の意見を代弁する設計者ではいられなくなってしまうのは困ったものです。
団塊世代のいえ作り、などという言葉を聞くことが多くなりました。
今までのいえ作りと何が違うのかを教えて欲しいものですが、何も変わることはない。
すでに存在していたパターンの中からコマーシャルに乗りそうなのを選定しては大声を出して叫んでいるだけのようにも思えます。
いつの時代にもコピーライターたちの言葉遊びに乗せられてしまうのは家作りの夢に酔った人たちです。
経済効果の風を吹かせるのがライターさんの役目で、確かに設計者もその一端を担う運命にあるのは否定しませんが何か寂しい思いをするのは私だけでしょうか?
団塊の世代の人々の内どれだけの人々が退職金を家作りに捧げるのかは知りませんが、大きく変わった生活習慣が自分の健康に与える影響を考えて、まず体のこと、そして自分自身の思いを再確認してから、おもむろに家作りに取り掛かって欲しいと考えるこの頃です。
前回、免震構造について感想を書きましたが、直後に石川県の地震が発生してしまいました。
輪島は学生時代に旅行したことのある思い出の地です。
地域的にもいたし方ないのかもしれませんが、またもや古い住居に被害が集中しているようです。
壊れた絵を見せつけられると、悲しい悔しい思いと同時に耐震補強という言葉さえ情報として耳に入っていなかったのかと考えざるを得ない状況にも空しさを感じてしまいます。
今回はちょうど日曜日の朝の出来事で、自分のパソコンで名古屋市内の道路網をプリントアウトしていたときに揺れ始めました。
感覚的にいつもより長時間揺れたため、直感的に「今回は大きいぞ、近いぞ」と思いました。
地震が起きる頻度がますます短くなってきており、それに比例するかのように書店で耐震補強について触れてある建築雑誌や参考書を衝動買いしてしまいます。
笑い話ではなく同じ本が2冊になってしまっています。・・・・ごく最近のこと。
自宅の幾棟かも手を加えなければ・・と毎日のように考えています。
みなさんは大丈夫ですか?
人にも忍耐強い人と逆境を受け流すように生きてゆける人がいるように、地震に耐え忍ぶ建物と地震を受け流す建物があるのをご存知でしょうか?
ちょっと考えてみても耐えて生きてゆくのはストレスが溜まってしまい、どこかで耐え切れなくなります。
逆境を受け流すように生きてゆける人は持って生まれて器用な人か、苦労の末に悟りを開いた人、もしくは鈍感な性格?かもしれません。
(小生の身の回りにも驚くほどデリカシーのない人がいます???)
実は建物の場合はそれほどの苦労もせずして地震を受け流すことができます。
木造の伝統工法、耐力壁が少なく釘などの金物ではなくホゾやクサビ、ヌキなどの仕口が構成されている建物、身近な例では神社や寺などです。
基礎は石の上に固定もせずに柱が据えられているだけ、柱とは柱はヌキで繋がれており、梁は柱に長ホゾで抜かれてクサビで止められている。
柱や梁はこれでもかと言わんばかりに身が太く、まさに自然素材の固まり、森の復元物です。
地震の実大実験でも阪神の大震災クラスの揺れにも、ギシギシと石の上で揺れながらも究極の免震で復元してしまうのも見たことがあります、めり込みが生じた部分は部分補修で元のままになる。
耐震、耐震と騒がなくともヌキ構造を見直して住宅の基本構造に取り込むことに目を向けてはどうでしょうか?
マスコミに流されて、にわかじたての建築知識でメーカーの手先のような家を作るようでは地震がきて壊れてしまうのが関の山。
黒川記章さんとは同じ建築の設計をやっているという共通点以外は縁もゆかりもないのですが、最近、都知事選に立候補されてからテレビのインタビューや討論番組で何をおっしゃるかが興味深くって毎日気になります。
いろいろな事情があって立候補をされているようですが、黒川さんが書かれている本などから想像していた彼の毎日の動きからは都知事としての幅の広い仕事を全てカバーできるとは思えないのです。
あくまで本を読んで知っている範囲での話ですが。
それよりも気になるのは、言動を見させていただいていて大建築家としての見識がこの位のものだったのかと歯痒く感じてしまう寂しさです。
同じ設計を生業にしてらっしゃるあなたはどう感じられますか?
どのような仕事も同じだと信じていることは、自分の専門分野、たとえば建築設計というフィルターを通じて建築設計という言葉で建築設計という武器で、世の中に意見を発表してゆくという道が本来の自己実現であるように感じました。
もっとも黒川さんは石原都政を阻止するのが目的だとハッキリ主張してみえますが。
このところ建築の設計者は世の中の注目を集めている中、我ここのありと張り切っておられる姿はやはり尊敬に値します、その意味では応援したいものです。
家というものの価値観をどのように捕らえるかは人によって千差万別です。
小生の頭には現実の生活を前提に置いた家創りともいえるものが染み込んでしまっている性でしょうか、デザイン性を優先する設計は若い頃はそうであったかもしれないけれど、今はそれが本来のあるべく姿として到底考えられないのです。
ところが世の中の人気を勝ち得ようとすると写真的いや今風に言うとビジュアル系の住まいがもてはやされて、生活という生の人間を包み込む住まいは価値観が低いようです。
というよりその価値が分かりにくいようです。
どうしても優先したいのは、デザイン性が高く非日常的なリゾート気分とも思えるような住まいで味わう充実感よりも、お風呂が気持ちいい、朝起きるのが楽だ、夏の夜風が気持ちよく入る、美味しい野菜が収穫できる、などなど、具体的で分かりやすいシンプルな生活の充実感が味わえる住まいに価値観の重心をもってゆきたいと思ってしまいます。
みなさんはいかがですか?
若い学生建築アスリートの頃は時代を先取りするようなプランは人の人生にも影響を与えるのではないか、またそんな家創りがあってもいい、と思いを巡らせたものですが、最近は家創りは林業にも似た自分の世代では変化させてはいけないような普遍的役目、自ずとたどり着くような枠が存在することに気がついてきました。
これは考え方が年とともに硬くなってきたのではなく、50才を過ぎたからこそ確信的に分かる普遍性、仏教の輪廻転生にも似た真実なのです。
木造の住まいと林業、環境、これらのキーワードは時代を先取りしているように感じています。
話が大きくなりすぎて理解しずらくしてしまいました、失礼。
今日は本来のブログ風の内容になりそうです。
昨日は大垣の矢橋林業さんのお誘いに乗って東芝の空調機器フェアーに出席してきました。
収穫は2つです。
ひとつはエコキュートのヒートポンプにエアコンのヒートポンプを使用するというアイデア。
もうひとつは最近の大規模空調にはガスヒートポンプではなく電気を使っていることが多くなったという事実です。
どちらも同じ立場の設計者の方が読まれれば、何を今更言っているの?と言われるかもしれませんが、日常の仕事の守備範囲から飛び出て場所を変えて目にした内容は頭に残り重要な知識になります。
エコキュートについては今注目の省エネ機器であることは家作りをお考えの方はご存知ではないでしょうか?
メーカーの回し者でも何でもありません、お風呂の600リットルの給湯を毎日担うライフラインのような機器であることを意外や建築主さんは無視していらっしゃるというか気がつかれていないようです。
どんな機構でお湯を沸かしてくれるかはメーカーのホームページに譲るとしても、エコキュートに関してエネルギー効率や機器の代金、メンテナンス性、将来性などを一度でも研究されることが良い家作りの条件のひとつであることは間違いないようです。
新築後にどんなテレビを買うかを夢見るより、エコキュートが生活費をどの程度助けてくれるか、暖かな入浴生活が送れることを考えたほうが良さそうです。
このブログでの方針はすぎはら設計という会社のブログでは書きたくないような個人的かつ偏りのある感想です。
日々の生活の中から零れ落ちる感想とも愚痴ともつかぬ、ひょっとしたらみなさんが読みたくも無いようなことも含まれているでしょうね、すみません。
それらのほうがきっと真実に近い欲得抜きで建築設計を生業とする人間の声がお聞かせできると信じているからです。
今日はこのブログを始めた頃の文章を読み返してみていましたが、最初の頃はかなり肩に力が入っていたなと気恥ずかしい思いをしました。
ではなく、初心に帰ってもっと中身のある内容を勉強しなければならないと書かなければならないのかもしれませんが。
ところで、小生のブログは全て携帯からアクセス出来るのはご存知でしたか?
携帯からでも覗いてみたいような中身にすることが先決なのですが、失礼。
株価の値動きを表すトレンドという言葉があります。
上下する大きな流れの中での方向を掴むことがなんといっても重要な作業なのはいうまでもありません、高値で売るのが利益につながるのですから。
投資の世界での常識は、トレンドは上がりっぱなし下がりっぱなしということはなく、上昇して過熱気味になれば調整の動きが必ずあると言われています。
それは市場が人間の心理に基づいて動いているからだと説明されています。
話題は小生の住む建築の世界に戻ります。
相変わらず談合が日常茶飯で行われている恥ずかしい報道が後を絶ちません。
談合行為を必要悪であると解かれる方は、その世界の技術レベルを維持するためだというのが大きな理由の一つです。
それは裏返せば独占的集団を作るのは当然の事実なのです。
ここで先ほどのトレンドという言葉を思い出してください。
市場関係では値動きというものを建築の世界よりも寛大な心で捉えてられているようにも思えます。
一気に入札の値札の動きと株価の動きを同列で論じてしまうのは乱暴であるのではという批判も認めないわけにはいけないのは解りますが、これを一笑に伏せてしまいたくなる方が居るのもこれまた疑問が残ると考えるのですがいかがでしょうか?
人為的に入札行為をコントロールするようなことを市場に持ち込んだりしたら、これは過去に存在した社会主義国家がしてきたことに他なりません。
そうです、談合を憚らない集団にはトレンドという人間心理の調整弁の存在を認める能力のない社会主義者なのかもしれません。
決して飛躍しすぎていないようにも思えますがいかがでしょうか?
構造計算の偽装から始まって、建築士の資格を専門性で区分する法改正の動きとそれに連動する能力評価の仕組みを作ろうという動きは、この「社会主義者」が入り混じって論じていることに恐ろしさを感じてしまいます。
夜中にこんな内容を書いていると面白い方向に話が流れてしまいました。
投資の勉強は面白いことも教えてくれます。
最近はこのブログに金融の話題を取り上げるようになってからコメントが急激に増えてきたようです。
コメントいただいている方には申し訳ないのですが、ほとんどがコマーシャルで本来のコメントでなくなっています。
小生としてもその方がかえって疲れなくて有難い一面もありますが、というのも今日も愚痴に終わりそうな話題ですから。
実は現在建築監理をさせていただいている住宅は古い知り合いで新聞店を営んでいらっしゃる方のお住まいです。
経済新聞を十年以上も取り続けているにもかかわらずニュース欄しかマトモに読んだことが無かったのですが、ここのところはそんな事情もあって本来の経済欄を毎日チェックするようになりました。
日本経済新聞の「大機小機」や「まちかど」という欄をご存知でしょうか?
記者がニックネームになっていることもあるかもしれませんがとってもトレンディーな話題でピントのはっきりした面白い経済指標になっています。
実は昨日の株価の下がり方を匂わす発言もちょっと前に書いてあったばかりでした。
建築の単価が毎日話題になる小生にとっても建築の経済動向という意味でも参考にさせていただいております。
こんな話題に触れるとまた「儲かりますよ」なんてコメントが溢れるのは残念ですが。
アフェリエイトを始めたきっかけは書店での立ち読みでした。
1999年から始めたホームページの公開ですが、正直なところ目に見えた形で良かったことは建築主さんからの直接のアクセスでした。
確かにそれ以上に何が不服なの?という声が聞こえてきそうですが、欲をかけばキリがないというか、本屋さんで見たグーグルアドセンスの料率の良さです。
申し込んでしばらくは振込みがあったのですが、残念ながら身に覚えのない不正アクセスということであえなく掲載権利剥奪でした。
本来の建築の話題からはどんどん離れていってしまいますが、意外と新しい発見を提携する会社から頂いています。
これもネット時代の恩恵かもしれません。
ネットショップにしかない商品には、設計事務所だけでなく建築主さんとなられる方にも有益なアイデアが隠れています。
やはりネット時代は自己責任という狭いイメージだけを覗いてばかりいないで、寛大な心で望むとこと、古い考えを捨てる勇気を持たなければならないようです。
昨日報じられた日銀の金利上げ、0.25がさらに0.5パーセントに上がるそうです。
私たち庶民にとって金利が上がるという言葉が重荷(ローンが残っていても)に感じないほどお久しぶりの明るい話題になってしまうのではないでしょうか。
建築関係者には金利が上がりもしないのに今年念頭にサッシメーカーさんやキッチンメーカーさんからお聞きしていた単価アップのお知らせですが、あなたはご存知でしたか?
それに関しては結局着工分に関しては在庫製品で間に合うことになり胸を撫で下ろしたのですが、金利が上がるとなれば、値上げにも説得力が出てきてしまう痛し痒しの状況です。
また最近読んだ日経ホームビルダーの誌面調査では建築会社を決定しなかった理由の62パーセントまでが予算の折り合いで2位がデザインや間取りで38パーセント、3位は反りが合わなかったで21パーセントであったという現実。
やっぱり相変わらず世の中、特に一戸建てを扱っている中小工務店さんには厳しい状態が続いているのだろうか?
またまた慣用句のごとく出てしまう言葉ですが、値段で決めてしまう家作りは悔いを残してしまうよ、と一生に一回だからゆっくり考えましょうと・・・
昨日は久しぶりに仕事から離れた日でした。
とはいえ、ぎふの木で家づくりコンクールでの表彰式に出席したということですから100パーセント離れたわけではない訳ですが、普段の緊張感からちょっと解放されてゲスト建築家のお話を聞く機会にも恵まれました。
丹波篠山で古民家再生に取り組んでおられる才本謙二氏のお話でした。
岐阜県産の木材使用を伸ばそうという取り組みの中での講演でもあり、やはり人間の住まう空間には肌に合う木材や土などの朽ちてなお美しい素材で作り上げて、それに身を任せるように年老いてゆくのが幸せではなかろうかというまとめでした。
もちろん人間の生活空間には化学物質は似合いません。
才本氏はそれをペットボトルの中の水に人間を例えて、不自然な状況の中で生活を続けてゆけば密閉された空間の中で心身ともに不健康な人生をおくることになるのでは・・・
といわれました。
自然素材と相性の良い先進的な化学物質とのマッチングで気密断熱空間を作ることにより通風効果を促し、自然な空気環境を作ろうとした小生の提案とはどこか食い違いを感じて聞いていました。
一気に過去の良き時代にあった自然な暮らしに戻してしまえば、理想ではあれどやはり現代人はストーブやエアコンを持ち込んでしまうことでしょう。
小生があえて気密に拘るのは内部の空間形状を工夫することにより自然な通風を呼び、エアコンという日本人の自縛霊から解放させる一手であるということを再確認したいところです。
木材のみに拘る考え方には、現代人に多く受け入れられる現実味と将来性を感じないため、環境技術とマッチングさせることを更に提案したいものです。
最近は債権、投資信託というような建築の技術的な世界から発想を変えてみようと金融関係の本を読み漁ってみています。
住宅金融公庫融資もローンを債権化して運用するという今までの安定感を連想する感覚からはかけ離れた世の中になり、これはなんだろう?と疑問を持ったのが発端です。
フラット35なんてネーミングはよく耳にされることでしょう?
金融の世界は面白いほど様変わりしてきたようです。
厚生年金というのは国が個人の人生を保障してくれるということのように捉えていましたが、なんと401kなんて老後の年金を投資運用しておこうという発想です。
銀行では預金、投資信託は信託会社、保険は保険会社、など金融機関ごとに扱える商品が法律的に固定されていた時代は過ぎ去ったようです。
上場できない小さな会社は事業資金として銀行から融資を受ける以外に生き残る道がないという時代が過ぎ去ってゆくのとイコールのようです。
預金率の高い日本人にとってゼロ金利は確かに痛手ですが、建築の世界が相変わらずの古臭いしがらみに縛られているのに、金融の世界では大きな変化が起こっていることに羨ましさを感じています。
確かに建築の専門性を問われるようになってきてはいますが、ただ規制のための規制になっている思いが強いのは私だけでしょうか。
構造設計一級建築士という資格を生んだ直接の発端は耐震の偽装事件という犯罪ですが、皮肉なことに結果として地震という天災の不安を少しでも取り除いてゆくマニュアルを作ってゆくことになったようです。
正直なところ一級建築士という枠の中では、姉歯さんのように立場の弱いのは構造専門家だということは多くが認める事実。
彼のしたことは犯罪ではありますが、商売の道具にされてしまったように感じているのです。
新しい資格の創設によって構造設計の専門家にスポットライトがあたり始めたことは、不謹慎ではありますが、彼の負の功績とでも言いましょうか。
前にも書いたように、なんで罪のない建築士までイジメルノ?と言いたいところですが、地震に強い建物を増やしていくには社会の冷たい風に後押ししてもらわなければならないという、人間の悲しい性(サガ)。
社会的に重石を課せられた構造設計一級建築士の構造計算書でなければ、岐阜県の揖斐あたりでも多い小規模な鉄骨2階建ての離れ(揖斐では小屋と呼ばれています)でさえ作れないということになりそうです。
木造の住まいの構造計算である軸組みの算定においても、従来は書類添付の必要がなかったものが必要になります。
私自身は木造が好きですから、それだけ皆さんが木造を大事に扱ってくれる分、嬉しいのです。
現実の仕事で構造設計一級建築士の資格が必要になり、いよいよ実質を問われる時代が来ることに、前向きに歓迎したいものです。
大学を卒業して2年の設計実務経験を経て一級建築士の受験資格ができます。
年に一回の学科と製図の資格試験を合格して、晴れて一級建築士を名乗ることが出来ます。
今回の耐震偽装事件による波紋は法の改正という形で建築士全員に対して責任を与えてきました。
昨日、改正に関する講習を受けてきましたが、何か釈然としません。
その改正内容は多義にわたりかなり中身の厚い、と言うより熱いものです。
とりわけ構造一級建築士という資格の創設については、現一級建築士の腕を一旦もぎ取って預かっておくから力ずくで取り戻してみろ・・・と言われているようです。
今まで積み重ねてきたことを整理して、もう一度勉強しなおし受験すれば済むことではあるのですが、これでいいのかという思いが残っています。
施行までの時間はまだあるようですので、細かな整理をしてほしいものです。
人によって住宅に対する価値観は面白いほど違うものです。
価値観の多様化は自由で豊かな社会の裏返しで喜ぶべきことではあるのですが、それでも本来のあり方は昔からそんなに変わってはいないのではないでしょうか。
誰もが考える共通の価値観が住宅に対するそれにもあるのは間違いないとは確信しているのですが、表面的な具体的好みは呆れるほど千差万別です。
住宅は生身の人間が過ごすという当たり前の事実があるのは百も承知のはずの設計者が、ときとして自分の主義に溺れていて見逃してしまう悲しさも感じます。
壁という存在に対して生活するご本人が設計者が思いもよらない感想を漏らされることもあります。
「どこに絵を掛けましょう?」
たったこの一言でハッと目が覚まされて、自分の思っていた住宅に対する考え方と大きく外れてしまっていたと反省したことのある設計者はたくさんいらっしゃることでしょう。
必死に自分の考え方を実現しようと踏ん張っている設計者であればあるほど、絵を掛ける場所や下地の具合、果ては設計当初の雰囲気作りなど、グルグルと思いが回転することでしょう。
建築主であるあなたにお教えしたいのは、そこでさも簡単に「どこでもいいですよ」なんて淡白な答えしか返ってこないようでしたら、要注意です。
果たして何が作りたかったのかをお尋ねになった方が得策です。
どの業界もプライドを忘れた行動が報じられているようですが、それほど思い入れをもって仕事に当たりたいものです。
それにしても壁の下地がどこに入っているかははっきりしておきましょう。
センセーショナルに報じられた宮崎県知事選ですが、皆さんはどのように捕えてみえますか?
長野県知事の例もあり、焦っているのは与党さんだけでしょうか。
タレントさんは人の心を掴むのがお上手なのでしょうか、それにしても不祥事を受けての選挙とはいえ演説がお上手なのには驚きました。
間の取り方や言葉の使い方はあくのない小泉さんみたいです。
現首相よりずっとお上手だとは思われませんか?
個人的には大歓迎です。
こんな知事さんが現れるくらいの出来事も、その結果も受け入れてしまうような懐の大きな国になって欲しいものです。
あるインタビューで地元の建築業者さんは「知事さんは建築をご存じないですから勉強して欲しいものです」と辛口コメント。
それを聞いて思ったのは、当然勉強はされるでしょうが時代の流れを勉強されるのはあなたのほうではないでしょうか?
相変わらずの専門バカのようなコメントに恥ずかしい思いさえ持ちました。
かく言う私も勉強しますが。
最近、マスコミで報じられた日銀の利上げの話。
ゼロ金利はすでに解除されているのですが、意外と世間は冷ややかに眺めていたようです。
その証拠に解除された直後に長期金利が敏感に反応しなかったとのこと。
日銀が徐々に金利を上げてゆくという流れが建築の設計者にどのような影響を及ぼしそうかということを考えてみていました。
それ以前に金利が上がるということは、世の中がどのように変わるのかということ、もっと具体的には企業の投資意欲が出てくるのか、消費行動が盛り上がってくるのかなどの見解を日経新聞関連の書籍で読み漁っています。
まるで設計とは関係なさそうなことなのですがこれが結構面白いのです。
普段触れることのない経済用語には実はよくお世話になる。
建築主さんと契約していただく建設会社の公開資料を呼んでいるときなどは、この意味をもっと深く理解できたなら・・・と勉強不足を後悔しているのですが。
それにもまして経済の大きな流れが変わろうとしている今、小さな弊社にも重要な動きが必要に思えます。
あなたはどう考えますか。興味ないですか。
京都議定書では2010年までに1990年レベルの6パーセント削減が要求されました。
民生用、つまり生活用や業務用の分野では2パーセントの削減目標が付けられました。
ところが住宅に関する生活エネルギーは2002年には1990年レベルの28.8パーセントも増えているというデータがあるそうです。
そこで2005年には地球温暖化対策推進大綱の目標値が改訂されて、民生用エネルギーは2010年までに6パーセントの増加まで抑制することが目標とされました。
私も興味を持って勉強している「自立環境型設計」では、2000年の標準的な住宅に比べてエネルギー消費に比べて半減させるという分かりやすい目標を示してくれました。
(風を感じるオール電化の設計ではそのマニュアルを勉強して作っていました)
それまでハウスメーカーのコマーシャルに登場してきた一般には分かりにくい熱損失係数の数値競争に終わらせることのない一皮剥けた設計マニュアルが出来てきたということです。
それにしても残念なのは、日々感じる気候の異常を感じているにもかかわらず、先にご紹介した生活エネルギーの二酸化炭素排出量はちっとも好転に向かっていないという現実です。
今年のエルニーニョによる暖かい冬は、大地震の前兆ではないかとさえ思えてしまうのに、先の自立環境型設計のマニュアルのような素晴らしい技術力を生かしていける見込みがあるのか不安です。
憲法改正による軍備拡張を考えるよりも、このマニュアルに法的強制力が付けられないものかと考え込んでしまったのです。
仕事が終わってからの私の憩いの場所は自宅の居間の隅っこです。
コーナータイプのソファーが南北に置かれた居間の南に西隅の部分、ここに南枕で寝転がってテレビを消して建築雑誌を読むのが癒しの時間帯、午後7時半頃から9時頃まで、そして朝早く。
なぜか部屋の隅に居ると落ち着くのは私だけでしょうか?
いかがですか?
8畳の居間の床近くから眺める斜め対角方向の天井や壁は、8畳にしては広く見えて、部屋の隅々まで見えて落ち着きます。
どんなに部屋が広くても隅っこが落ち着く空間であるのは人間の心理なのではないでしょうか。
子供が小学生の頃の運動会の日の昼食の時間に寝転がった体育館の隅っこ。
このときも同じ感覚に包まれたことがありました。
住まいのワンルームという発想には、隅っこの扱い方で隔てが無くても結構面白い空間作りが出来てしまうのもこれに関連した話ではないでしょうか。
同業の方には強烈で皮肉っぽいタイトルになってしまいました。
こうも言いたくなるような設計料で役所と契約を結んでしまう設計事務所はたまに現れます。
決して後ろ向きに批判を目的に書いているわけではないことを前置きしておきます。
発注者にとっては予算が低く抑えられて良いサービスが得られればそれに越したことは無いはずですから。
そんなことが起きたときに残念なのは、経費が出ないからと手を抜くこと、それではいけないと次からは談合してしまおうと画策すること。
いつも思うのは、赤字が出そうならば辞退すれば良い、無理して契約してしまわずにお断りすればいいのに・・・ということです。
背に腹は代わらないからと赤字の仕事に挑んでも、残るのは空しさばかりです。
最近はこれを称してオープン価格と言うのかなー・・・・と考えることしきり。
もしこれがオープン価格であれば、自然発生的に適正なところに落ち着いていくのではないかというかすかな期待も持っています。
そんなことを考えてばかりいて暗くなっていくより、非現実的でもいいから、どこかのコンペで拾ってくれないかと慎ましやかな夢に酔っているおじさん設計屋でいたいと思っています。
このブログタイトルページに掲載しております【揖斐川町北方のいえ】が「岐阜の木で家づくりコンクール」にて入賞いたしました。
建築主様はもちろん、施工業者様や協力業者一同様、いつもブログを読んでいてくださる皆様に感謝いたします。
送料無料 吉祥花文字 吉祥花文字 (特大) D:上段x2 下段x2-3(4-5名)
今日はこんなことを思い立って書いてみました。
「家庭のあり方」というと家庭はこうあるべきだ、と一定の形を思い浮かべてしまいます。
これに対して「家庭のありよう」というと家庭のありかたはいろいろあっていい、というような寛容な受け取り方を感じます。
最近次々起こる悲惨な家庭問題や教育問題を耳にするにつけて家族をもつ一員としては気になることばかりですが、当然ですが根本には家庭家族というものがあるのです。
家庭のあり方をこうあるべきだと形を限るように論ずるより、家庭のありようを、こんなありかた、あんなありかたもあるという切り口で考えてみるという、いろいろなケースを大きく捉えるところからスタートしたほうが糸口に入っていけそうな気がする。
一体全体どうなっているんだ、それではおかしい、それは普通ではない、そんなことはありえない、と全否定からスタートして、それはこうあるべきなんだ、こうするべきなんだ・・・と答えを探す感覚は事の重大さが分かっていない人々、外野席で怒鳴っているばかりで現在問題の渦中にある人々には声が届かないのです。
おきた事を何があったのかを具体的にひとつひとつ丁寧に聞き、大人である自分の育ってきた過程や時代、経験とその頃の思いを思い起こして照らし合わせる作業を根気よく繰り返してみること。
時間軸で過程、そして家庭のありようを点検してみること。
人の顔が全て違うように家庭もありようは違います、そしてそれを認める受け入れるポイントを探すことが重要なように感じます。
ありようというのはその家庭内では問題視するほど事ではない場合もあります、だからありようから、その家庭だけのあり方を発見し認め合うという寛容さが欲しいものです。
これは問題解決の糸口発見の手法というだけでなく、家庭内でのひとりひとりの関係にも同様です。
家作りにも同じ視点でそのプランを決定してゆく場面があります。
それはご両親に「お兄ちゃんがどうしても部屋が欲しいといっているので何とかお願いできませんか」とご本人の意思表明をお聞きしたときです。
こんな言葉をお聞きすると、これが本来の設計であると考え方を振り返って修正に汗してみます。
2007年、明けましておめでとうございます。
昨年(2006年)の完成で各務原市の山の前町に出来上がった住宅を工程から完成までを時間の流れを追ってシーンごとにコメントを入れてアルバム風に綴ってみました。
一連のシリーズのように現場で撮った一枚一枚のデジカメ写真を題材にした説明に、今回はポイントとなる一言を過去の現場経験を踏まえて付け加えています。
ひとつの拘りを持って住まいを創ってみたいとお思いの方、木造の住宅を勉強してみえる方など、それぞれの視点で読んでいただけると幸いです。
この現場解説シリーズをホームページに掲載し始めてから6年、中身の濃淡を問わなければ18件目になりますが、自分自身の足跡を自分なりの表現方法で残したいという思いと、考え方に賛同してくださる方に建築主になっていただきたいという思いもあります。
賞取りを目指してあるいは工事受注という手前勝手のために住まい手を脇へおくことなく、人の生活というものを前にしてじっくり考える住まいが良い住まいといえます。
建築ブックマークの建築ファイルにも他の同様な掲載がされていますのでご覧ください。
ショールームが用意されているメーカーのキッチンは、ショールームで見ているせいでしょうか、仕上がった状態は確かに美しいのですが、何か生活感がなくまとまりすぎているような印象を受けます。
手作りのキッチンは自らこうして使ってくださいと言われているようで、料理の楽しさを表現しているようにも感じますが大袈裟でしょうか。
機器の性能を見ていても力こぶを感じますし、オープンな空間には自由度があります、まさに一生使い込んでいきたい感覚です。
アクセントタイルはアーストンモザイク・ウエルディエイソシエです。
気密を確保するために、吉川化成の換気扇が排気を開始すると同時に吸気扇が回転し始めるという仕掛けも作りました。
暖炉を生活の中に取り入れると暖房に対する考え方が変わります。
エアコンは電気によって稼動していることが多いようですが、本来は空調といって空気を暖めることによって「暖をとる」という、火のメンテナンスが行き届かない施設のためのものでした。
普及力と手軽さ、お金でものを片付けてしまおうとする日本人の悪い癖の性でしょうか、住宅のような小さな空間を暖めるには消費電力のたくさん必要なエアコン(最近は電力のいらないものが多くなってきましたが)による暖房は人間の体にとっても日本人の古来からの文化性にも似合わないと思うのですが。
やはり「暖をとる」といった感覚の暖炉のような暖房器具が似合う気がします。
暖炉ではたき火のように輻射熱といって直接人の体を暖めるのと、熱を受けた壁や柱が天井、特に無垢材が良いのですが、それらが蓄熱(熱を蓄える)することによる暖房になります。
時間と手間はかかりますが、現代の暖炉は火持ちも良く煙も少なく暖炉の前面に吹き出すことはありませんし、一度火が入れば朝まで暖かく過ごせます。
そして体にとっても良いです。
長い人生慌ててどうすると考えれていらっしゃる建築主さんにはお奨めです。
今年ももう少しでフィナーレ。
今年お会いした建築主さん、事務所へコマーシャルにみえるキッチン屋さんも、異口同音になぜかアイランド型キッチンがもてはやされていました。
アイランドを生かすプランは確かに意外性のある面白いものにはなりますが、果たして毎日の生活に負担にはならないかが不安でした。
充分な検討をされた方は良かったようですが、結局「ミーハー」に決定されかけた方もいらっしゃいました。
特に台所に向かう時間がどうしても短時間で終わらざるをえないような、「働く主婦」さんにはお奨めしたくないのです。
アイランド型キッチンを世に知らしめてくれた宮脇壇先生には申し訳ないんですが。
いいおじさんになって何を寝言いってるの?・・・ですが。
ほとんどの人が夢をみているのだけれど、ほとんど朝起きると忘れているのだそうです。
昨夜は久しぶりに覚えていました。
それは、自分の作った住宅に泊めてもらった夢でした、それも子供と一緒に。
あのプランは確か揖斐川町の北方に完成した「私の北方住宅」の2階の北西隅にある子供室でのことでした。(夢の中で)
床についてもう眠ろうかと子供と話していると、下からご家族の話し声が聞こえてきた。
そこでふと思った、1階の話し声が聞こえるのだから2階の話し声も1階で聞こえているのかもしれない。
内容まではもちろん不明確で聞き取れないのだけれど・・・
果たしてこれは住宅の性能としてよしとするか否か。
家族ごとの事情に応じてきっと二分される価値観ですが、概ね良しとするのが私の考え方です。
もちろんその音が構造上の不備が原因であったならそれは論外ですが、ネダレス工法の床でしかも気密をキチンとやっていると平面プランによってはその可能性はあると。
子供が親の話し声をうるさいと感じても感じなくても、家族の営みに任せてよい程度の事柄。
住宅の性能を数値で争う紋切り型の説明を加えること、それに固執するコマーシャル、何か渇きを感じてしまうのは私だけでしょうか。
・・・・夢の中でそこまで突き詰めて考えていたわけでは無いのですが、これだけの出来事にも何かしら教えられたのを気がつき、書き残してみました。
何が大変かといえば、積雪のことです。
今年は暖冬で、今日12月20日でも屋外での仕事があったのですが、寒いとは思えません。
2004年に完成した住宅のデッキテラスで建築主さんと雑談を交わしていたのですが、むしろ気持ちが良いほどの気温でした。
戻りますが、昨年の冬は本当にたいへんな豪雪でした。
あちこちの屋根や庇、カーポートが雪の重量に耐え切れずに落ちたり潰れたり、穴が開いてしまったり、まだまだ不景気の風の中にあるこの地方の職人さんたちに、思わぬ景気の風が吹きました。
1年が経過しようとしている今でも片つかない仕事がいくつも残っているようです。
今日この頃の暖冬は職人さんたちに早く片付けろと忠告しているように思えてきます。
面白い建築写真の撮り方をお教えします。
建物が完成したらやってみる写真の撮り方があります。
とにかくたくさん撮ること、完成する頃に一日に100カット以上を3日くらいは現場に通います。
これは大学時代に写真サークルに在籍した頃に覚えたことですが、100カットを撮ってもそのうちの面白いと感じる写真は数カットです。
ただし学生の頃の写真のテーマは社会問題を浮き彫りにするというジャーナリストのようなものでしたので、そんな視点で選定していました。
建築の設計を職業にするようになってからは、ちょっと変わりました。
それは、建物の中を歩く順序、人間の動線を意識しながらたくさん撮ってみるのです。
アングルも変えてみてさらにたくさん撮ります。
今はデジカメの時代ですから、パソコンに取り込んでワンカットずつ学生の頃のように丁寧に眺めてみます。
これは本当に教えたくないのですが、面白い発見がいくつも出てきます。
写真ワンカットずつ見る動線の検討はユニバーサルデザインに通ずるものを発見します。
インテリアデザインを振り返ることもこの方法が生きます。
デジカメを通して額縁に入れたインテリアは図面を描いていたときの建物とは違う魅力を発見するときもあります。
工事が終わってから眺めなおす工事の様子や竣工の状態は現在進行中の設計に対して、こうしなさいと意見を言っているようでもあります。
書き出すともっとたくさんのメリットがありますが、もしあなたが建築主さんでしたらデジカメでたくさん撮っておいて作ったという事実と歴史を残しておいてやってください。
幸いにして画像データはそんなにパソコンのハードを占拠することはないですから。
揖斐はこの北方の伊尾野という地名がルーツと言われていますが、ここに2004年に完成したのが私の「北方住宅」です。
岐阜県にはもうひとつの北方町があり、そちらには岐阜県庁ご自慢の北方住宅があります。
かの磯崎新さんやデイラーさんが設計に参加された共同住宅群です。
前知事、梶原拓氏は中央の建築家さんがお好きなようでしたが・・・・
話を戻して、私の「北方住宅」は木造の2階建てですが、岐阜県の「ぎふの木で家づくりコンクール」に出品してあり、一次審査を通過して現地審査を受けることになりました。
夕食のとき長女と冗談を交わしているときに思いついたパロディーでした。
年末になってあまった時間を利用して「建築ブックマーク」さんの関係で、各務原の住宅の現場監理日記をまとめています。
今日もキッチンの流しを設置した頃の記事を書いていましたが、ちょうどその日が5月の25日で私の誕生日でした。
設置日が誕生日と重なっていたところで感傷的になる年齢でもないのですが、それ以上にキッチンの仕上がりの素晴らしさに感動したのです。
これだけ本格的なオリジナルキッチンを建築主さんと何度もデザインを打合せて作った経験は少なく良い経験をさせていただきました。
辰巳工業さんは知る人ぞ知る有名なキッチン屋さんですが、百聞は一見に如かず。
是非グーグルで検索してみてください。
また来年は「まちかどけんちくか」の内容をさらに詳しくお伝えできる編集を加える予定でおります。
日経アーキテクチャー、日経ホームビルダー、建築ジャーナル、建築士、アーガスアイ、中電さんが送ってくださる雑誌。
どの雑誌も興味深いことが特集してあり、欲張って全てに目を通そうと頑張るのですが、結局全てを読めずに枕元に積みあげられています。
読んでみて全てが頭に残るわけも無く、全てが仕事の役に立つわけもないのですが、それでも読みたくて仕方が無いものだから読めなくて残るのは後悔ばかり。
お金を払って後悔を買っているようなもの。買わなきゃいいのに。
具体的知識の増殖や新たな発想の種を拾えることを望んでいるのですが、確信できるものは拾えずに、結局のところは仕事の企画に繋がる何か、大雑把な世の中の流・・・・程度に留まっています。
それでも買うのをやめようとしない「欲」に本当は感謝するべきなのでしょうか。
障害者の方など健常者以外の方のためにと叫ばれている「バリヤフリー」とかユニバーサルデザイン」。
そのための改修工事の一つの方法が便所を広くして、入りやすくする、補助器具を設置する、など。
最近の洋便器はエロンゲート(大型)レギュラー(普通)も以前のタンク付きのものより10センチ以上全長が小さくなっています。
そして便座の穴の形状が使いやすく改善されています。
私も最近メーカーさんのショールームで見てみて今更ながらびっくりしました。
確かに小さくなっているのは感じていましたがこれほど工夫が進んでいるのを、自分で舐めるように眺めてスケールを当たってみて分かりました。
したがって、従来からある便所の便器を取り替えるだけで、壁を破って広くする必要がなくなる可能性が大きく広がったということです。
大騒ぎすることではないような話ですが、まさにその不便さに苦しめられている方にとっては朗報です。
さらに発展させて、便所とお風呂と洗面所をひとつの空間にすると良いのではないでしょうか。
古いマンションのワンルーム型のユニットバスを思い浮かべている方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。
高級ホテルの広い空間のイメージで便利さを追求してみたいと考えています。
独立して間もない頃に知り合いの建設会社社長さんに「現場管理も勉強してもらうといいですね」といわれた事がある。
ちょっと腹が立ったので「現場監理を知ってもらうといいですよ」と答えたことがある。
この意味は理解できますか?
よく就職希望の面接に来られる方に「監理と管理の違いは何ですか」と尋ねてみますが、多くの場合はハッキリしない。
特に現場出身者には・・・・・
本当は現場監督を経験してらっしゃる方の方が分かるはずなのに。
管理者は現場の管理者です。
工程が遅れないように、種々の事情で変更があるようならば調整してゆく。
各協力業者の納まりや段取りを調整してゆく、いわゆるエンジンの潤滑油のような役目です。
監理者は監理者です。
工程の進行を邪魔をしてはいけませんが、設計を変えることはできません。
現場管理者は故意ではないのですが工程を急ぐあまりに設計の意図を変えてしまって解釈していることがあります。
こんな場面では監理者であることを主張すべきです。
これは例え相手が建築主であっても、事情を説明して理解を求めるのが職域というものです。
ちょっと話が飛躍してしまいますが、最近起きている日本全国の談合事件や公務員の不祥事など、いじめまでもがこの守らねばならない一線を「何でもあり」の民主主義の履き違えが起こしてしまっているようにも思えます。
かの構造計算偽装事件を引き起こしたのもこの延長線上にあります。
加えるに若い建築士さんにはこの基本を勉強してほしい、一般の方にはこのボヤキを知っていてほしい。
住まいを計画する上でどうしても考慮に入れておかなければならないのは、建築費の試算だけではない資産。
洒落を書きたかったわけではなく出てゆく建築費がどのくらいになりそうかは当然大きな問題ですが、出てゆくお金は大小の差はあるもののどうしても必要なものとして、ある意味「あきらめて」しまいましょう。
それよりも大声でお教えしたいのは、ライブドアショックでも報じられているように世の中の経済の仕組みが変わってきているという事実です。
変わってきているというより変わってしまったといったほうが正確でしょう。
間違いなくインフレに近い状態、専門家ではないのであくまで「近い状態」ですが、住まいの計画を機に個人の資産運用のソフトなんかをご自分のパソコンにインストールしてみてはいかがでしょうか。
是非、お勧めします。
何年現場監理をやっていても思うのは施工者と監理者は平行線です、・・・というより最近はそうあるべきと感じるようになってきました。
自己満足ではなくこの年齢だからこそ確信をもっています。
この言葉はお互いの立場を理解しあわないほうが良いということを言っているのではありません、むしろその逆なのです。
きっと若い監理者には分からないでしょうね、残念ですが。
設計者と施工者は現場という土俵の上で甘えた関係を期待しあっていては、建築主に対して失礼で良い建物は残して挙げられないということです。
特に個人の住宅では真実です。
例え方が小さくてピントがぼけるかもしれませんが、民間工事でのコンクリート打設時の塩分濃度試験をするかしないかの施工者との押し競饅頭なんかがあります。
内陸部でのコンクリート打ちだからと確認を怠ると後悔が残ってしまいます。
これをキッチリ自信を持って目くじら立てずに指示できるのは、やはり経験の豊富な監理者にのみ出来る技(わざ)と言える。
釘に関する議論だけで何冊も本が書けてしまうほど現代の木造にとって重要な存在です。
ところが残念なことに従来の修行を積んでこられた大工さんの多くは、釘を使う仕事は邪道のような考え方が今もあります。
現代の木造軸組工法の現実と地震頻発を考え直してください!!
構造用合板を耐力壁として使う場合の建築基準法上の仕様は、壁倍率2.5となり釘の種類はSN50@150、厚みは7.5MM以上となっていますが、SN50@100、厚みは12MMを使用しています。
さらに釘の配置は日の字状に、そして構造用合板はできればということで2級より層の多い1級を使って欲しいものです。
釘のめり込みによる約20パーセントの耐力低下を防ぐためハンマーで打ち込んで欲しいのですが、どうしても機械打ちになってしまうために上記の仕様を厳しくチェックすることにしています。
現実の現場では人間のすることですので100パーセント完全な仕事はできません。
それを踏まえた仕様を設定するのも設計者の監理技術だと考えます。
もっと言えば、第三者として設計者が現場に存在するからこそ守られる内容であることを強調したいものです。
先の自民党総裁候補3氏を「いい子、悪い子、普通の子」だそうです。
吉田茂ゆずりの断定的ものの言い方の人、理路整然としていて出来上がってて印象的でない言い方の人、・・・・・と思います、早口で親しみはあっても頼りない語尾のはっきりしない言い方の人。
やはり小泉節のアピール力には負けてます。
それにしても「いい子、悪い子、普通の子」には思わず笑ってしまいました、失礼。
こんな場面から以下のようなことを連想してしまいました。
設計監理者が存在する現場も何か似ている部分があります。
「いい子」は建築主?「悪い子」は工事担当者?、「普通の子」は監理者?。
こんな人間関係(現場での役割分担でしょうか)で運んでゆくと良い現場が残ってゆくようです。
いい子(良い子かな)と悪い子しかいない現場はケンカになったら収集がつかない、いやケンカにもならないかも・・・これも困った結果なりそう。
それぞれの思いや考え方をぶつけ合える環境がまずあること、そしてお互いの立場を100パーセントでないにしろ理解し合えるが、妥協しすぎないこと。
難しそうですが、建築の監理では、いい子、悪い子、普通の子が揃うと良い現場が残せそうです。
最近は毎日子供が自殺したり親に殺害されているようですが、どうなっているんでしょうね。
これだけ続くとテレビのニュースを見るのも気が重くなります。
家族の役割を考える以前に、その形自体が消えてしまっているのではないでしょうか?
ゆとり教育がまずかったからと教育基本法を改正するんだと大騒ぎしているようですが、その前にそのことを思い起こす必要があるのではないですか。
政治家はこれが教育を見直す第一歩と仮定しているのでしょうか?
あまりに不透明感を感じます。
子供が育ってゆく過程で、家族の絆というものをどういう形で育てるかを考えておくことが大切です。
家庭の役割は、子供の育つ課程を家族がどのように見守り、導いてやるかが大きな役割と考えています。
これは言葉にするほど簡単なことではないのですが、毎日の小さな努力の積み重ねを惜しまず始めましょう。
住宅の設計を考えるうえで、現場監理を進めていく上で、家庭を空間として育む家の作り上げられた物理的価値も重要ですが、同時に作ってゆく過程を家族全員で意見交換して見守ることの価値を見直す必要を改めて感じます。
設計者として本音で語れるブログが一番参考になると信じていますがどうなんでしょう?
建築主本人やハウスメーカーの元営業マンさん、結構カウント数を上げているブログに出くわすのですが。
建築主ご本人のブログは、失敗談や迷いが露骨に語られてあって「そうじゃないんだよ~」と設計者としては歯痒い思いや哀愁を感じてしまう。
ハウスメーカーの元営業マンさんのそれには、本音で裏話が語られていて建築主ご本人にとってはちょときつくて設計者までも不信感を持たれてしまいそう・・・
ブログは所詮読まれる人の自己責任で・・・とはいうものの不安を覚える内容が溢れています。
やはり設計者は本物は何かを語るのが、設計と監理のセットによるいえずくりを分かりやすく説くのが本来の姿かな・・・・とまあ平たく言えば癒し系の内容で大人らしいデザインと性能がいいのでしょう。(カウント数は上がらないかも知れませんが)
どんな仕事も楽しいばかりで終わることはありません。
苦しみが伴うからこそ楽しみもひとしお感じられることもあります。
また常に楽しさを感じながら仕事をすることは出来そうで出来ないことです。
ところが、好きでやっていることであったり、一回でもその仕事の醍醐味を感じているとちょっとした苦しみも難なく乗り越えて、知らず知らずのうちに面白さを感じてしまっているという場面にも出くわします。
それは永年同じ流れの中で身を浮かべているせいかも知れません。
そんな経験の中から最近感じることの一つに作る楽しさがあります。
しかしそれは作る側、設計者のエゴでしかないのかもしれません。
そのエゴは建築主にとっては必ずしも悪いことではなく有益なことのほうが多いのは確信を持っていますが。
さらに住まう側の建築主は住まうことのほうが当然のように興味が強いはず。
技術的な内容をマニアックに追求してみたい方もいらっしゃいますが、やはり住まう楽しさに興味が強いのは逆に住まう側のエゴ。
そのことにどれだけ思いを馳せて共感できる設計者でいられるかは、多くの経験を積み重ねてゆき、一つ一つの設計経験を丁寧に点検できなければ到達できないようです。
設計のプロと思えるにはそんな考え方の道筋に乗っかっていないと無理なのかなと・・・・・
テーブルランプ アクア
ここのところ、某流通センターの構造計算をすすめています。
面積は1800m2位ですが、構造はいたって単純、どちらかといえば意匠屋の私にも計算ソフトを使えば出来てしまう内容のものです。
昨日の新聞ネタは姉歯さんが偽装の事実を認めたとか何とか。
かの不動産屋の元気のいいおじさんはどんなんになったの?
ハッキリさせてもらわないと今日やらなきゃならない計算をすすめる気にもならない・・・のです。
何故って?
民間の審査機関さんは審査の再計算に2ヶ月欲しいとのたまう始末。
確認申請がおりるまで3ヶ月待って欲しい・・・なんて社長さんに言えますか?
同じ立場の経営者としては「とてもじゃないけどそんなに待ってちゃビジネスチャンス逃しちゃう」と断ってもらっても仕方がないと同感してしまいます。
何なんでしょうね、この歪み、捻れ。
かの事件は設計者が施工者に使われたことからおかしくなったんです。
設計者の独立性をもっとハッキリ法的に位置づける必要を感じます。
テーブルランプ アクア
最近、地元の某新聞にも書かれていました、・・・・自分の住まいを設計事務所に託す「いえずくり派」が増えてきている、云々という記事。
これはネットを利用して自分の作風をアピールする若い設計者(私は若くないかも)が増えてきていることも理由のひとつ、例の事件依頼世の中の関心を集めているのも原因。
ただ某新聞社の記事の中にも設計料が工事費の1割から1,2割と唱ってあり、さらにそれが近づきがたくて、設計事務所に依頼したいのはやまやまだが手が出ないという現実も存在すると。
実はある方からいただいたメールの中にも「もっと分かりやすい設計料の表示はないか?」とのありがたい提案がありました。
設計料を安くするからご依頼下さい・・・・といってしまえば何でもしますの業者感覚で面白い仕事にはならないし魅力が半減するのではないでしょうか。
(工事費の1割という設計料は、実はこの地方(岐阜県西濃)ではあまり存在しない話しではあることもついでに付け加えておきます)
仮に1割の設計監理費を払ってでも依頼をもらえる魅力を持ち合わせる努力をすることが一番まともな道ではあるのですが、(団塊世代よりもちろん若いのですが)経験を積んできた設計者としては、やはりネットを利用して、より分かりやすい設計監理費の使い道を公開、説明をする書き込みをしてみようと考える今日この頃。
テーブルランプ アクア
簡単そうで簡単でない、くっつきそうでくっつかない、そんな物事は人間関係に限らず建築の世界にもたくさん例があります。
だから世の中面白いという見方もありますが、これがコンクリートとコンクリート、コンクリートとモルタルという関係になりますと、ほとほと現場で困ったことが出てきます。
基礎の強度を落としてしまい意味をなさないベースと立ち上がりのくっつかない二度うちコンクリート。
土間コンクリートとくっつかずに浮いてしまったモルタル金コテ、オマケに目地を忘れてビシビシ入ったクラック。
私たちが若い頃は左官工事がたくさんあって、モルタルとの付き合い方に注意をしたものですが、今の若い建築士はそれを軽視しすぎる。
「理屈はどうあれクラックは絶対入るから目地を入れなさい」の忠告を無視して知らん顔。
悲しいかな感覚と経験で顛末が分かってしまうモルタル世代とでも言いますか。
案の定、失敗。
同時に勉強には素直さと謙虚さが必要であることを覚えて欲しいものです。
コンクリートとコンクリートがくっつかないほうの話しは笑い事ではない恐ろしい構造事故にも繋がってしまうことが身にしみるにはつらい経験をする前に勉強しろよ!
今日は分かる人には分かる話でした。
昨日の深夜、NHKのスペシャル番組を目が冴えてしまっていて長時間見ていました。
先の大戦での硫黄島の激戦の凄まじさをあらためて見てしまいました。
お盆の頃はこの手の番組は数多くありますが、生き残っておられる方の証言と死亡者のデータ、元アメリカ軍人の証言、島内を隈無く彫り巡らされた日本軍の基地の調査平面図。
それらをベースに語られてゆく激戦の様子を見ていると、何がなんでも戦争はしたくないと感じざるをえません。
小泉さんが何故靖国参拝に拘っていたか。
これも彼の生い立ちと経験を聞いて、ひょっとして彼は任期満了を前にして私たちに財産を残そうとしたのかも知れない、と尊敬の思いを持ってしまいました。
日本軍兵士の塹壕内での様子を知るにつけて、現在の幸せを振り返ると同時に、現在の一般的な住環境のすばらしさを思い直す必要を感じました。
【建築を知らない人】にメリットある話、契約前に読むブログを新たに開設しました。
先日もブログをお読みなっておられる方からのお電話で、工事竣工後に不具合が発生してきて困っているとのこと。
ところが契約書に「瑕疵」に関する取り決めを明記してある契約約款の添付なしで工事契約が成されており、支払いが全て終了してしまっておりどんな対処法があるかとのご相談でした。
詳しくお訊きすれば、瑕疵の内容も軽微なものも含まれており一般的に無償で直してもらえそうなものまで遠慮なさっている様子、
有償になりそうなこともありましたが、以前も工事を依頼したことのある工事屋さんとのことでしたので勇気を持ってご相談されれば良い結果になりますよ・・・とアドバイスしておきました。
これは一例ですが、こんな悩みを防いだり解決法を見出したりできるだけでなく、もっと前向きに「得しちゃおう」という明るく住まいつくりに取り組む人に読んで欲しいブログです。