現場監理と現場管理

独立して間もない頃に知り合いの建設会社社長さんに「現場管理も勉強してもらうといいですね」といわれた事がある。
ちょっと腹が立ったので「現場監理を知ってもらうといいですよ」と答えたことがある。

この意味は理解できますか?

よく就職希望の面接に来られる方に「監理と管理の違いは何ですか」と尋ねてみますが、多くの場合はハッキリしない。
特に現場出身者には・・・・・
本当は現場監督を経験してらっしゃる方の方が分かるはずなのに。

管理者は現場の管理者です。
工程が遅れないように、種々の事情で変更があるようならば調整してゆく。
各協力業者の納まりや段取りを調整してゆく、いわゆるエンジンの潤滑油のような役目です。

監理者は監理者です。
工程の進行を邪魔をしてはいけませんが、設計を変えることはできません。
現場管理者は故意ではないのですが工程を急ぐあまりに設計の意図を変えてしまって解釈していることがあります。

こんな場面では監理者であることを主張すべきです。
これは例え相手が建築主であっても、事情を説明して理解を求めるのが職域というものです。

ちょっと話が飛躍してしまいますが、最近起きている日本全国の談合事件や公務員の不祥事など、いじめまでもがこの守らねばならない一線を「何でもあり」の民主主義の履き違えが起こしてしまっているようにも思えます。

かの構造計算偽装事件を引き起こしたのもこの延長線上にあります。

加えるに若い建築士さんにはこの基本を勉強してほしい、一般の方にはこのボヤキを知っていてほしい。



資産運用と住まいづくり

住まいを計画する上でどうしても考慮に入れておかなければならないのは、建築費の試算だけではない資産。

洒落を書きたかったわけではなく出てゆく建築費がどのくらいになりそうかは当然大きな問題ですが、出てゆくお金は大小の差はあるもののどうしても必要なものとして、ある意味「あきらめて」しまいましょう。

それよりも大声でお教えしたいのは、ライブドアショックでも報じられているように世の中の経済の仕組みが変わってきているという事実です。
変わってきているというより変わってしまったといったほうが正確でしょう。

間違いなくインフレに近い状態、専門家ではないのであくまで「近い状態」ですが、住まいの計画を機に個人の資産運用のソフトなんかをご自分のパソコンにインストールしてみてはいかがでしょうか。

是非、お勧めします。



どこまで行っても設計監理者と施工者は平行線であるべき


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何年現場監理をやっていても思うのは施工者と監理者は平行線です、・・・というより最近はそうあるべきと感じるようになってきました。

自己満足ではなくこの年齢だからこそ確信をもっています。

この言葉はお互いの立場を理解しあわないほうが良いということを言っているのではありません、むしろその逆なのです。

きっと若い監理者には分からないでしょうね、残念ですが。

設計者と施工者は現場という土俵の上で甘えた関係を期待しあっていては、建築主に対して失礼で良い建物は残して挙げられないということです。

特に個人の住宅では真実です。

例え方が小さくてピントがぼけるかもしれませんが、民間工事でのコンクリート打設時の塩分濃度試験をするかしないかの施工者との押し競饅頭なんかがあります。

内陸部でのコンクリート打ちだからと確認を怠ると後悔が残ってしまいます。

これをキッチリ自信を持って目くじら立てずに指示できるのは、やはり経験の豊富な監理者にのみ出来る技(わざ)と言える。

釘を大切に

釘に関する議論だけで何冊も本が書けてしまうほど現代の木造にとって重要な存在です。

ところが残念なことに従来の修行を積んでこられた大工さんの多くは、釘を使う仕事は邪道のような考え方が今もあります。
現代の木造軸組工法の現実と地震頻発を考え直してください!!

構造用合板を耐力壁として使う場合の建築基準法上の仕様は、壁倍率2.5となり釘の種類はSN50@150、厚みは7.5MM以上となっていますが、SN50@100、厚みは12MMを使用しています。
さらに釘の配置は日の字状に、そして構造用合板はできればということで2級より層の多い1級を使って欲しいものです。

釘のめり込みによる約20パーセントの耐力低下を防ぐためハンマーで打ち込んで欲しいのですが、どうしても機械打ちになってしまうために上記の仕様を厳しくチェックすることにしています。

現実の現場では人間のすることですので100パーセント完全な仕事はできません。
それを踏まえた仕様を設定するのも設計者の監理技術だと考えます。

もっと言えば、第三者として設計者が現場に存在するからこそ守られる内容であることを強調したいものです。

良い子、悪い子、普通の子。



先の自民党総裁候補3氏を「いい子、悪い子、普通の子」だそうです。

吉田茂ゆずりの断定的ものの言い方の人、理路整然としていて出来上がってて印象的でない言い方の人、・・・・・と思います、早口で親しみはあっても頼りない語尾のはっきりしない言い方の人。

やはり小泉節のアピール力には負けてます。

それにしても「いい子、悪い子、普通の子」には思わず笑ってしまいました、失礼。

こんな場面から以下のようなことを連想してしまいました。

設計監理者が存在する現場も何か似ている部分があります。

「いい子」は建築主?「悪い子」は工事担当者?、「普通の子」は監理者?。

こんな人間関係(現場での役割分担でしょうか)で運んでゆくと良い現場が残ってゆくようです。

いい子(良い子かな)と悪い子しかいない現場はケンカになったら収集がつかない、いやケンカにもならないかも・・・これも困った結果なりそう。

それぞれの思いや考え方をぶつけ合える環境がまずあること、そしてお互いの立場を100パーセントでないにしろ理解し合えるが、妥協しすぎないこと。

難しそうですが、建築の監理では、いい子、悪い子、普通の子が揃うと良い現場が残せそうです。

家庭と過程と仮定

最近は毎日子供が自殺したり親に殺害されているようですが、どうなっているんでしょうね。
これだけ続くとテレビのニュースを見るのも気が重くなります。

家族の役割を考える以前に、その形自体が消えてしまっているのではないでしょうか?

ゆとり教育がまずかったからと教育基本法を改正するんだと大騒ぎしているようですが、その前にそのことを思い起こす必要があるのではないですか。
政治家はこれが教育を見直す第一歩と仮定しているのでしょうか?
あまりに不透明感を感じます。

子供が育ってゆく過程で、家族の絆というものをどういう形で育てるかを考えておくことが大切です。

家庭の役割は、子供の育つ課程を家族がどのように見守り、導いてやるかが大きな役割と考えています。
これは言葉にするほど簡単なことではないのですが、毎日の小さな努力の積み重ねを惜しまず始めましょう。

住宅の設計を考えるうえで、現場監理を進めていく上で、家庭を空間として育む家の作り上げられた物理的価値も重要ですが、同時に作ってゆく過程を家族全員で意見交換して見守ることの価値を見直す必要を改めて感じます。