住まいを儀式の場にすることについてブログを読んでくださっている皆さんはどう感じられますか?
病院での闘病生活も空しく、生前は生活の場であった和室に帰ってきて、ゆっくり寝かせてやりたい、そして住まいから天国へ送ってやりたい、という家族の思いが痛いほど理解できた今回の出来事。
それを思い起こすと、それが自然な儀式の形かな、とも思えなくもないのです。
儀式というものについても改めて考え直させてくれました。
故人を惜しむ気持ちにケジメをつけたいという人間としてあるべき姿のスタートを公共施設ではなく生まれ育った住まいの中で、ひとつの決まった行動パターンによって区切りを付けるのです。
宗教と言うより人間の知恵でもあるのです。
姿形は亡くなっても、考え方や意志は家庭の構成員の気持ちの中にも生き続けており、時間が経過してもそのことを振り返るには、葬儀は住まいで行うのが良いのかも知れないと考えてしまっているこの頃です。
ただ、そのことのみを目的とした住まい創りには、少々抵抗感がありますが。
少なくとも、亡くなっても自分の中に生きている肉親を忘れてしまうような、恣意性に偏った設計はしたくないものです。