宗教と住まい・その1

ごく最近、父の急死に直面して喪主という経験したくなくともせざるをえない立場に立ちました。
小生の地元にもご多分に漏れず「揖斐広域斎場」という公共施設が整備されており葬儀会社による葬儀も普及しつつありますが、自治会の運営による在来の形式も相変わらず残っています。

父は地元に永くお世話になっていたこともあり、当然のごとく自治会運営の形をとりましたが、この場合は葬儀の当家(小生の家族)や親類も巻き込んだ協力体制を取ることになります。
小生も当然初めての経験に右往左往するばかりで、周囲の情報を集積して方針ややり方を決めてゆく泥縄状態。
やはりそつのなさにおいてはプロの手には遠く及ばないのですが、父がそれを気にする人間ではなく、むしろ近所の方々に送ってもらったということに喜んでいるに違いありません。

そんな事情があって葬儀会場は自宅を使用しましたが、
今でもこの地方に残る八畳が四つ住まいの1階の西面に配置する伝統的プランにも、この期に及んで先人の知恵を感じてしまいました。

畳というフレキシブルで適度な柔らかさと落ち着きのある雰囲気の素材感、祭壇を組み上げて周囲を飾ったときの会場の雰囲気、親類縁者や地元の方々を収容したときの適度な広さ、通夜葬儀当日の人の動線を整理する便利さ、などなど。

住まいは葬儀の二日間のためだけにあるべきではないとはいうものの、和室のしつらえに込めてきた先人の宗教上の思いや普段の生活への思いが存在しており、プロとして再確認の必要を感じました。

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